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イギリス選挙法の改正

13世紀に身分制議会として始まったイギリス議会の下院議員の選挙は、15世紀に地主の男性に限る制度が固定化され、17~18世紀にの商工業の発展で産業資本家層と都市人口が増加しても変更されなかった。現状に合わなくなった選挙法改正の要求は産業革命を経て新たに登場した労働者層の不満も高まり、選挙法改正を求める運動が激しくなった。その運動によって、19世紀以降、5次にわたる改定が行われ、選挙権は産業資本家、さらに都市の労働者層に拡大され、ようやく20世紀後半になって、男女平等で財産制限のない、なおかつ秘密に投票される普通選挙を実現させた。選挙区割りも平等の原則によって改訂が行われてきた。

 イギリス議会制度での選挙制度の改正の歴史はおおよそ次のようにまとめることができる。
 13世紀にイギリス議会制度が始まったが、当初の身分制議会は、封建社会の各身分の代表によって構成されており、国民の代表を選出するものではなかった。15世紀には下院(庶民院)の議員は選挙で選ばれるようになるが、その有資格者は地主階級(ジェントリ)に限られており、わずか3%を占めるにすぎなかった。このような選挙制度で選挙権が認められなかった新興の産業資本家(ブルジョワジー)は不満を強めていった。また選挙の区割りも次第に実際の人口分布と合わないという不合理さが顕著になってきた。そのような選挙法を改正し、選挙権を拡大しようという運動が産業革命後には、新たに出現した大量の労働者層の中にも広がり、既存政党である保守党自由党のいずれもが無視できなくなった。いずれも党勢を拡張しようとして選挙法改正をたびたび提案したが、議会の上院(貴族の牙城)の反対でなかなか成立しないでいた。しかし、1820年代の自由主義的改革が進む中で、ようやく第1回の改革が行われ、それ以後、次の3段階、5次にわたって選挙制度の改正が行われることとなった。
 → 第1回改正  第2回改正  第3回改正  第4回改正  第5回改正

19世紀前半

:産業革命後の産業資本家、労働者階級の成立を受けて、19世紀初めに選挙法改正運動の気運が高まる中、1832年にホイッグ党グレイ内閣のもとで、第1回選挙法改正が行われ、腐敗選挙区が無くなり、産業資本家(ブルジョワ)階級に選挙権が拡大された。しかし財産制限は残り、普通選挙は実現しなかったので、30~40年代に選挙権の拡大を請願するチャーティスト運動が展開された。しかし普通選挙は実現できなかった。その間、トーリー党とホイッグ党は分裂と統合を繰り返しながら、次第に近代的な政党に変質し、1830年代に保守党自由党という2大政党に変質した。 → イギリス(7)
 フランスでは、男子普通選挙はフランス革命の時の1792年に最初に実施され、それによって国民公会が成立していたが、1795年憲法で否定されてしまった。その後制限選挙が続いたが、七月王政のもとで選挙法改正運動が高揚し、1848年の二月革命によって実現し、四月普通選挙が実施されていた。

19世紀後半

:この時期の保守党と自由党は、保守的と革新的という性格の違いはあるが、いずれも支持基盤を産業資本家・都市民に移し、ブルジョア政党となっていた。当時の代表的政治家の保守党ディズレーリ、自由党グラッドストンは共に選挙法改正は不可避と考え、それぞれ党内の保守派の抵抗に遭いながら、改正案を議会に提出した。その結果、1867年第2回改正が保守党ダービー内閣(ディズレーリが内務相)のもとで実現して、選挙資格を下げられて都市労働者に有権者が広げられた。さらに1884年には第3回改正が自由党グラッドストン内閣のもとで実現し、農村労働者にまで広がった。労働者階級に選挙権を付与することによって、民主主義の実現を図るべきであるという思想は、産業革命期の政治思想家で「最大多数の最大幸福」を説いたベンサムや、ヴィクトリア時代のジョン=ステュアート=ミルなどの功利主義者によって理論づけられていた。しかし、イギリスでは19世紀中は財産制限の完全な廃止、つまり普通選挙は実現されなかった。

20世紀前半

:イギリスで普通選挙制が実現するのは、第一次世界大戦末期の1918年。第4回選挙法改正の時で、そのとき21歳以上の青年男子と、30歳以上の女性に選挙権が認められた。また1928年の第5回選挙法改正で、21歳以上の男女と改正されて、完全な男女平等の普通選挙が実現された。 → 男性普通選挙  女性参政権

選挙法改正(第1回)

イギリス・グレイ内閣の1832年、選挙権の産業資本家層への一部拡大と腐敗選挙区の廃止を実現した。

 1832年、ホイッグ党グレイ内閣のもとで行われたイギリス最初の選挙制度の改正。その要点は、選挙権を産業資本家など中間層に拡大し、腐敗選挙区を無くして都市などの人口の多い地区にも議席を割り当てたこと、であった。この改正によって有権者は96万に増加し、ブルジョワジーの政治参加が実現した。これはイギリスの1820~40年代に展開した審査法の廃止カトリック教徒解放法奴隷貿易禁止自由主義的改革など一環であり、さらには穀物法の廃止航海法廃止などの自由貿易主義の展開に対応した、ブルジョワの時代の到来を意味する改革であった。たが、この改革では都市下層民、労働者の選挙権は認められず、彼らの不満は強く残った。
背景と経緯 選挙制度改正の要求は1760年代から強まっていたが、アメリカ独立戦争、フランス革命後のナポレオン戦争とが続いていた間は議論する余裕がなく放置された。1830年にグレイ内閣は初めて選挙法改正を議会に提出した。その法案は、ブルジョワ階級を含む中流階級にまで選挙権を拡大することによって、進行する工業化社会に対応することめざしたが、同時に従来の地主階級の政治支配は維持・強化しようとするものであった。法案は下院を通過したものの、上院(貴族院)で否決されてしまった。
盛り上がる運動 これに対して、ブルジョワ階級は銀行家や産業資本家が結成したバーミンガム政治同盟を中心に運動を展開し、さらに労働者階級にも呼びかけた。労働者も普通選挙権と秘密投票を要求して立ち上がり、上院が法案を否決した事に対し、ブリストル、ノッティンガム、ダービーなどで暴動を起こした。
上院を黙らせる この状況を前にしてグレー内閣は、法案通過に必要な上院の過半数を獲得するため新貴族の創設を国王に要請し、国王もそれを認めたので上院もついに屈服した。つねに保守的な上院を黙らせるために、新貴族を創設するというやり方はこの語も続く。
内容の骨子
  1. 都市選挙区においては年価値10ポンド以上の家屋・店舗を所有ないし賃貸する者に、州選挙区においては年価値10ポンド以上の謄本土地所有者、年価格50ポンド以上の借地農に、選挙権を与えたこと。
  2. 多くの腐敗選挙区を無くし、新興の工業都市にその議席を配分したこと。
  3. 有権者の登録を制度化したこと。
結果と問題点 この選挙法改正の結果、有権者は16万から96万に増加した。その多くは産業ブルジョワジー、つまり都市の中産階級であり、有権者の全人口に占める割合も、わずかに4.5%にすぎなかった。議員の被選挙権も改正されなかった。また、選挙の投票も秘密投票ではなく、有権者が候補の名を口頭で告げるやり方だったので、威圧や不正の横行はなお続いていた。そのため、都市の下層市民、労働者階級のなかの普通選挙を求める声はさらに強くなり、チャーティスト運動へと繋がっていく。<村岡健次/川北稔編著『イギリス近代史(改訂版)』2003 ミネルヴァ書房 p.141 などによる>
・POINT イギリス選挙法改正の歴史だけを見ていると、次の第2次に進むわけだが、第2次選挙法改正は1867年なのであり、その間に35年間の間隔がある。この間、イギリスではチャーティスト運動は弾圧されて終わりを告げ、一方で1840年にはアヘン戦争で清を屈服させ、1857~59年のインド大反乱(セポイの乱)を鎮圧してインド植民地支配を完成させるなど、大きく変質していることを忘れないようにしよう。第2次選挙法改正は、ヴィクトリア朝の繁栄のただ中、イギリス帝国主義への転換の時期に行われている。

選挙法改正(第2回)

1867年、イギリスで選挙権を都市労働者上層に拡大した改正。資本主義経済の発展に伴う、工業化・都市化に対応し、ヴィクトリア期の繁栄を背景としていた。有権者は一挙に100万人以上増加する大幅な改革であったが、まだ男性のみに限られており、完全な普通選挙ではなかった。

 1830~40年代の労働者階級による選挙権要求の運動であったチャーティスト運動に対しては、上院・下院とも議会はかたくなに拒否していたが、50~60年代には保守党自由党はともに労働者階級に一定の歯止めを設けた上で選挙権を与える必要があると考えるようになっていた。その背景には、ヴィクトリア朝の繁栄として明確に見られるイギリス資本主義の成長のもとで、労働者階級でも熟練工は一定の収入を得て安定し、社会変革を望ます体制的になっていたことがあげられる。権力をにぎったブルジョワジーはこのような労働者階級の上層を体制に組み込むことで支配の安定をはかる必要があった。問題は、労働者階級の上層とそうでない層をどこで区切るか、だった。
背景と経緯 まず、1866年に自由党のラッセル内閣のグラッドストンは、従来の都市選挙資格の10ポンド戸主を、7ポンドに切り下げる提案をした。しかし7ポンドを上層として区別するには無理があり、同党内の保守派の反対で否決され、内閣は総辞職していた。代わって登場した保守党のダービー内閣のディズレーリは、翌1867年、おもいきって財産資格を撤廃し、都市労働者階級の選挙資格として戸主選挙権(ただし地方税の納入を条件とする)を提案し、一気に解決を図った。
 なお、ジョン=スチュアート=ミルは1865年の下院議員選挙に立候補し「女性参政権」を掲げて当選しこの第2回選挙法改正が審議されたとき、女性参政権を認める修正案を提出したが否決されている。イギリスの女性参政権運動もこれをきっかけにはじまったが、要求実現は19世紀中にはできなかった。
内容の骨子
  1. 選挙資格も条件であった財産規定は廃止され、「戸主及び10ポンド間借人選挙権」とした。
  2. 11の選挙区を廃止し、35の選挙区の定員を各1名とし、その余剰の議席を他の選挙区に配分した。
結果と問題点 この改正は飛躍的な選挙権の拡大となり、都市の労働者の殆どが有権者となり、中流以下の商工業者も選挙権を得た。イギリス連合王国の有権者は、1867年の135万人から、247万人に、つまり一気に約110万人以上増加した。
 この改正以降、自由・保守両党は、議会外での有権者の組織化を進め、近代的な政党へと脱皮していった。投票法はこの時点ではまだ公開制であったが、1872年に秘密投票法が制定され、一連の選挙制度の改正と考える必要がある。
 しかし、この改正で都市労働者への選挙権拡大派及んだが、なおも農村の労働者は戸主であっても選挙権が認められない状態が残った。<村岡健次/川北稔編著『イギリス近代史(改訂版)』2003 ミネルヴァ書房 p.160 などによる>

秘密投票法

 第2回選挙法改正後のまもなく1872年に、自由党グラッドストン内閣(第1次)はイギリス議会で秘密投票法 Ballot Act を提案、化靴成立し投票の秘密は守られることとなった。グラッドストン内閣では前年に労働組合法も成立している。
 イギリスの選挙法は、第2回改正で大幅に有権者を拡大したが、その投票法は昔のまま、つまり選挙権は社会的地位の高い人の特権であるから、有権者は堂々と挙手か口頭で候補者を指名するという方法で行われていた。つまり投票者の秘密は守られなかったため、選挙権が拡大されると、雇い主が労働者に強要したり、地主が小作人に供試したり、脅迫して不正をすることが横行していた。労働者の選挙法改正の要求の一つには、選挙の自由を守るため秘密投票制にせよ、ということが叫ばれていた。
  議会制民主主義の先進国であるイギリスにおいても、秘密投票という現在では当然とされる投票法も、約150年前、明治5年のことであったことを覚えておこう。

選挙法改正(第3回)

イギリスのグラッドストン内閣の1884年、農村労働者にも選挙権が拡大され、成年男性の多くが有権者となった。

 イギリスは「世界の工場」としての工業力を誇り、広大な植民地を有するイギリス帝国として繁栄し、国内政治は保守党と自由党の二大政党制が機能して安定していた。しかし1870~80年代のイギリスには、南北戦争を克服したアメリカ合衆国と、普仏戦争に勝利して国家統一を成し遂げたドイツが急成長し、イギリスの牙城を脅かすようになり、これらの資本主義国はさらに勢力圏を拡張しようと争う帝国主義の段階に突入した。
 帝国主義的な外交政策を進めたグラッドストン内閣(第2次)は、国内政治を安定させる必要があった。
内容 第2回選挙法改正では、都市部の選挙区で「戸主および10ポンド間借人選挙資格」は、州選挙区(農村部の選挙区)には適用されなかった。そのため、農村労働者は選挙権拡大から取り残されていた。そこで1884年、自由党グラッドストン内閣(第2次)は、州選挙区でも同様な資格都市、農村労働者に選挙権を拡大した。
意義 その結果、農村労働者の大部分が有権者となり、有権者はそれまでの約300万人から約500万人に増え、大幅な増加となった。これによって労働者階級の選挙人が初めて過半数を超え、議会制民主主義の発展に大きな前進となった。
残された問題  しかし、当時イギリス成人男性は約700万人であったから、男性だけでも約200万が無権利であり、完全な普通選挙とは言えなかった。また、当時女性参政権の要求も出始めていたが、ほとんど顧みられることはなく、当然の如く選挙権は男性に限ったことであった。
小選挙区制 この改正と同時に、議席の再配分が行われ、議員の選出は原則として人口比率に基づくべきであると定められた。また若干の例外はあるが、一選挙区一議席の小選挙区制が採用されるようになった。この後イギリスの選挙法では小選挙区制が継続され、選挙制度上も二大政党制が長く続くこととなる。

アイルランド情勢の変化

 グラッドストンは、選挙制度の改正という実績を掲げ、アイルランド問題の解決に取り組んだ。アイルランドでは農民に支持層が多かったアイルランド国民党がこの選挙法改正で議席を伸ばした。グラッドストンは議会内でアイルランド国民党の支持が必要であったため、アイルランド自治法案を議会に提出することにし、3次にわたり提案したが、自由党員の有力閣僚であったジョゼフ=チェンバレンがそれに反対して辞職し自由統一党を結成した。グラッドストンは解散して信を問うたが敗北する。これがきっかけとなって自由党は衰退、自由統一党は保守党と接近して行くこととなる。

選挙法改正(第4回)

イギリスで1918年に行われた、女性選挙権(条件付きだが)、男性普通選挙を実現した改正。有権者が一挙に2000万人となり、労働党が議会に進出した。

 第一次世界大戦中のイギリスでの1918年、ロイド=ジョージ挙国一致内閣(保守党・自由党・労働党の連立内閣)のとき、国民代表法が成立し、男性は21歳以上のものすべてに、女性は30歳以上で戸主又は戸主の妻である場合に選挙権が認められた。一般には選挙法改正は19世紀の三回までとすることが多く、この改正は「1918年の選挙法改正」と言われることが多い。
普通選挙法と女性参政権の実現 財産の制限や戸主であることなどの条件がなくなり、21歳以上の男性普通選挙の実現が達成された。また「30歳以上で戸主または戸主の妻」という条件がついてはいたが初めて女性参政権が認められた。同時に女性の被選挙権も認められたので、翌1919年の選挙で初めての女性議員が1名、当選している。<村岡健次/川北稔編著『イギリス近代史(改訂版)』2003 ミネルヴァ書房 p.239>
 イギリスの女性参政権を求める運動は、1860年代から続いていたが、様々な団体に分裂し、その一部のパンクハーストらのグループの積極的な実力行使は支持を集められず、停滞していた。ところが、第一次世界大戦の総力戦の中で、女性の労働力が必要になったことも背景にあって、大戦末期のこの改正で女性参政権が(制限付きで)認められることになった。しかし、男性との差は大きく、残る課題は選挙権年齢での男性との平等をはかることであった。
有権者、一挙に2000万人に 1918年6月に選挙法が改正され、12月に総選挙が実施された。その時の有権者は、750万人から一挙に約2000万人に増大した。これは、従来のイギリスの「ジェントルマン資本主義」社会の上に成り立っていた保守党と自由党の二大政党制を終わらせ、労働者階級の政治参加によりその代表政党である労働党を重要な政治力として登場させることになった。

労働党の躍進

 この選挙法の改正によって、ほぼすべての労働者の参政権が実現したため、労働者を支持基盤とするイギリス労働党がめざましく進出することとなった。1918年12月の選挙では、ロイド=ジョージ率いる与党の保守党・自由党(連立派)が圧勝したものの労働党は野党第1党となった。
 1924年には自由党との連立でマクドナルド労働党内閣を成立させ、さらに次第に自由党に代わって二大政党の一翼を担うこととなる。

選挙法改正(第5回)

イギリスで1928年に、21歳以上の女性に選挙権が認められ、選挙権の男女平等が実現した。翌年の総選挙で労働党が第一党となった。

 1928年、ボールドウィン保守党内閣のもとで、21歳以上のすべての女性にも選挙権が認められ、イギリスで完全な男女平等選挙権が実現した。一般的には第5回と言わず、1928年の選挙法改正という。

労働党政権の成立

 翌1929年に実施された総選挙において、労働党が議席数で第一党となり、労働党単独内閣としてが成立した。党首マクドナルドは再び首相となり、前回は自由党との連立内閣であったが、今回は初めての労働党単独内閣としてイギリスの舵取りをすることになった。これ以降、イギリスは保守党と労働党の二大政党制へと移っていく。
 しかし、その年、アメリカのウォール街で始まった世界恐慌はイギリス経済をも直撃することとなる。 → イギリス
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村岡健次/川北稔編著
『イギリス近代史(改訂版)』
2003 ミネルヴァ書房