印刷 | 通常画面に戻る |

保守党

近代から現代にかけてのイギリスの政党。トーリ党との後身として1830年代から保守党と称し、20世紀前半までは自由党と、後半は労働党とともにイギリスに大政党の一翼を担い、現在もたびたび政権を担当している。

 イギリス議会制度の中で形成されてきた政党政治は、19世紀のイギリスで典型的な展開を見ている。トーリ党は、ピール首相の時の1834年に保守党(Conservative Party)と称するようになった。一方のホィッグ党自由党といわれ、ライバル関係は続いた。しかしピール内閣が進めた穀物法の廃止を巡って分裂し、ピールら自由貿易主義派が分離し、保護貿易主義派が保守党を継承した。19世紀後半のヴィクトリア朝時代にディズレーリの主導で帝国主義的な政策を強め、自由党との二大政党時代を築いた。
 19世紀末にアイルランド自治法案を巡り自由党から反対派が分裂し、自由統一党を結成した。チェンバレンら自由統一党は次第に保守党に同調し、1912年に正式に合同し、その時党名は「保守統一党」Conservative and Unionist Party となった。この党名は今も続いているが、後にアイルランドの分離独立が確定したので、現在ではあまり使われず、単に「保守党」というのが通称となっている。
 第一次世界大戦後には労働党が台頭して、自由党は力を次第に弱め、世界恐慌期には鼎立した三党が連立する状態が続いた。戦後は労働党と交互に政権を担当する状況が続き、保守党サッチャーの長期政権の次には労働党ブレア政権が続いた。しかし21世紀には労働党がイラク戦争での対応の誤りからが勢いを失い、第三の極として自由民主党が登場し、2010年には保守党と自由民主党の連立のキャメロン政権となった。2015年には保守党単独政権となったが、スコットランドの分離運動、EUからの分離という問題に直面している。

ピールの改革と分裂

 ピールはトーリ党の指導者として下院で活躍していたが、地主階級の出身ではなく、父はランカシャーの織物業経営者として成功した人物であり、産業資本家の立場に立っていた。産業革命が進行した19世紀初頭、産業資本家層の選挙権要求とともに、自由貿易主義が台頭してくると、ホイッグ党のグレイ内閣の時にまず1832年に第1回選挙法改正が実現したが、トーリ党のピールはそれには一貫して反対していた。1834年、ピール内閣が成立すると、ピールは自分の選挙区で「マニフェスト」を発表してトーリ党の従来の保護貿易主義を改め、自由貿易主義を掲げ、穀物法の廃止論に転換した。しかし、選挙で敗れたためピールはいったん野党に退き、1841年に再び内閣を組織して次々と自由主義的な経済政策を実行していった。1845年のアイルランドのジャガイモ飢饉に端を発する穀物価格の急上昇を受けて、翌1846年、穀物法廃止を提案した。保守党の中にも反対派が多かったのでピールはホイッグ党と提携して法案を成立させた。しかし、そのために保守党はピールらの自由貿易主義者は保守党から離れ、1859年にホイッグ党に合流し、自由党を成立させることになる。 → イギリス(7)

自由党との二大政党時代

 19世紀後半になると、農業的利益を優先する保守的な地主階層を代表する政党という性格が次第に薄れ、自由党と同じような商工業的利益に優先させる傾向が強まった。しかし、自由党が自由主義的な経済活動を重視し、国権による経済介入や海外進出には新潮であったのに対して、保守党は経済への積極的な介入、海外植民地の獲得といった帝国主義政策を主導するようになった。そのような19世紀の後半のヴィクトリア朝を指導したのがディズレーリであり、60~80年代にグラッドストンの指導する自由党との二大政党制の一翼を担うこととなった。 → イギリス(8)

帝国主義政策

 1886年、アイルランド問題でグラッドストン自由党内閣は暗礁に乗り上げた。アイルランド自治法案に反対したジョゼフ=チェンバレンらが自由党から離党し、自由統一党を結成、自由党は分裂し、同年の総選挙でも敗れたグラッドストン内閣は総辞職した。保守党でディズレーリの後継者となったソールズベリ第2次内閣を組閣、これ以降、保守党主導の帝国主義政策が展開される。
 1895年の総選挙で大勝した保守党は、自由統一党と合体して統一党を結成し、ソールズベリ第3次内閣を組織、チェンバレンが植民地相となって、ボーア戦争に踏み切った。

労働党との二大政党時代

 第一次世界大戦後、労働党が台頭し、自由党が没落するとその保守的な部分を吸収し、1912年に保守党に正式に統合した。それ以後は、労働党と二大政党政治を展開、ネヴィル=チェンバレンらが労働党のマクドナルドらと対抗した。
 第二次世界大戦中にはチャーチル(戦前には一時自由党に属す)が戦争指導に当たり、国民の強い支持を受けたが、大戦末期にドイツとの戦争での勝利が明らかになると、国民の期待は戦争よりも社会福祉に転換し、労働党のアトリー内閣が生まれた。それ以後は保守党と労働党の二大政党が政権を交互に担当するようになり、保守党にはイーデン、マクミランが続いた。

サッチャーの新自由主義

 1970年代、「イギリス病」と言われるイギリス経済の停滞が明らかになると、それまで保守党政権下でも守られていた社会保障優先の政策に対して、保守党党首サッチャーが大胆な削減を主張、公共事業の民営化と、ヴィクトリア時代の繁栄を取り戻すことを掲げて選挙で勝利し、80年代のサッチャー時代を現出した。サッチャーは、新自由主義の影響を受け、ケインズ的な財政出動による経済政策を「大きな政府」として否定し、社会保障の削減、規制緩和などを強行し、それに対する批判を1982年のフォークランド戦争で果敢に国益を守った「鉄の女」というイメージでかわし、国民的な人気を獲得した。

サッチャー後の保守党

 サッチャーの次はメイジャーが保守党内閣を組織したが、サッチャー主義の行き過ぎから経済格差の拡大が進んだことへの反発から労働党のブレアが政権を奪還した。ブレアはサッチャー主義にケインズ的な社会政策を加味した「第三の通」を採ることで支持を集めたが、外交政策ではアメリカ追随が色濃くなった。労働党政権はブラウンが継承したが、イラク戦争への参加や経済政策に対する批判が強まって国民的支持は低下し、2010年総選挙でキャメロン率いる保守党が第1党となった。しかし、単独では政権を作れず、急速に台頭して第三党となった自由民主党との連立を組むこととなった。2015年に単独政権となったキャメロン政権は、国内で高まったスコットランドの分離運動と、イギリス自身のEUからの分離運動に直面し、前者はスコットランドの住民投票で否決されたものの、後者は2016年6月の国民投票で可決され、残留を主導していたキャメロンは辞任することとなった。  
印 刷
印刷画面へ