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ドイツ関税同盟

1834年、同盟国内の関税を廃止して自由通商を行って産業保護をはかったドイツ諸邦の経済同盟。プロイセンが主唱しドイツ統一の前提とした。

 ウィーン体制下のドイツ連邦は35の主権国家(領邦)、4つの自由都市からなる連合国家であり、それぞれが政治・経済で独立した主権を持っていたため、経済制度・政策はバラバラで、各国毎に税関を設け通過する商品に税金をかけていた。これは19世紀前半に、ドイツの商工業がイギリスに比べて著しく立ち後れている主要な要因であった。ドイツ全体での関税線も作られていなかったので、すでに産業革命を達成したイギリス工業製品がどんどんドイツに入ってきて、ドイツ工業製品を圧倒しており、ドイツの輸出品は依然として小麦などの農産物が占めていた。このようなドイツにおいて産業を維持し、発展させるためには、イギリスのアダム=スミス流の自由貿易主義では不可能であるとしたドイツの経済学者フリードリヒ=リストは、保護貿易主義を唱えた。リストの経済思想はプロイセンの政策に取り入れられていった。

ドイツ関税同盟の結成

 1834年1月1日をもって、プロイセン王国を中心として、ドイツ連邦内の18ヵ国が加盟してドイツ関税同盟が発足した。関税同盟加盟国は、加盟国相互の関税を廃止し、自由に通商を行い、また同盟国以外の諸国との通商には共通の関税を賦課することとした。また翌年の1835年にはリストが奔走した鉄道建設が実現し、ドイツの鉄道が開通した。
 この同盟は、次第に加盟国を増加させ、1854年にはオーストリアを除くほとんどの邦国が加盟した。この経済政策での統一は、プロイセンを中心とするドイツの政治的統一の前提として、大きな意義を持っていた。また、これによってドイツの産業革命の基盤が作られた。この関税同盟は1866年の普墺戦争後にオーストリアを排除して成立した北ドイツ連邦、さらに1871年に成立したドイツ帝国にも継承された。 → ドイツ統一問題
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