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鉄道

蒸気機関車を軌道の上を走らせる輸送機関。1830年代のイギリスに始まり、イギリスの植民地拡大に伴って急速に世界各地に普及した。 → ドイツ  フランス  アメリカ  インド  中国

 産業革命の進展は、各地に生まれた工場に原料を運び、さらに製品を市場に運ぶための交通機関の発達を促した。鉄道以前にイギリスでは道路網が建設され、馬車による交通が発達していた。石炭が新しい燃料源として消費されるようになると、その大量輸送の需要が出てきたが、馬車ではそれが出来ないので、次いで運河が建設されるようになった。さらに運輸時間の短縮を目ざして開発されたのが、軌道の上を蒸気機関で牽引する車両をはしらせるというものであった。すでに早く1804年にトレヴィシックがその原理を考案したが、実用化には至らなかった。1825年にスティーブンソンの蒸気機関車が初めてストックトン・ダーリントンを走ったがそれも石炭輸送が目的であった。乗客を運ぶ最初の鉄道営業が開始されたのは1830年のマンチェスター・リヴァプール鉄道であった。その成功によって鉄道敷設は急速に延び、イギリスでは1840年代の「鉄道狂時代」が出現した。それは直ちにイギリス以外にも広がり、アメリカでは1827年、ドイツとベルギーでは1835年、フランスでは1840年、ロシアでは1837年に建設が始まった。
(引用)鉄の道路は、国々や諸大陸をよこぎって、風のような速さで、その巨大な煙の羽毛をつけたへびをはしらせ、その築堤や掘り割り、橋や駅は、一団の公共的建築物をつくりだし、それにくらべれば、ピラミッドやローマの水道や、中国の長城さえもが、見おとりがしていなかめいたものにみえた。そういう鉄の道路は、技術による人間の勝利の真の象徴であった。<ホブズボーム『市民革命と産業革命』安川悦子/水田洋訳 岩波書店 p.67-68>

鉄道開通の政治的な意義

 鉄道の開通が、産業革命の仕上げとなる重要な経済的な意義があることは容易に理解できよう。それでは1830年代のイギリスで鉄道開通がどのような政治的な意義を持っていたか考えてみよう。
 イギリスで鉄道開設が進められていた1830年代は、選挙法改正問題が国論を二分する政治的な問題であった。また産業革命によって産業資本家が力を得て、彼等の要求である自由主義的改革が次々と進められていた。東インド会社の営業停止や航海法の廃止、奴隷制度の廃止などである。そのような中でマンチェスターとリヴァプールの産業資本家は両市を結ぶ鉄道建設に積極的であったが、それに対してすでに造られていた運河を所有する領主や中間地の地主たちは自分たちの利権が失われるので強く反対していた。つまり、鉄道建設問題は“「土地」からの利益によって生活を維持している貴族や大地主などの保守勢力に対して、新しい科学である工業力を武器として、鉄道によるなぐり込みをかけたのが、金の力をバックとする新興ブルジョワ階級であった”のである。
 マンチェスター・リヴァプール鉄道開通の日に列車にはねられて、鉄道事故死第一号になったウィリアム=ハスキッソンは、保守党の代議士であったがリヴァプールの庶民の出身で、保守派の政治家に熱心に鉄道建設を説得し、それを実現させた人物だった。彼がその日に事故死したのは皮肉としか言いようがない。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.23>

鉄道建設ブーム

 1830年に開通したマンチェスター・リヴァプール鉄道の大成功にあやかろうと、イギリス全国で鉄道設立計画が立てられた。
(引用)殊に1832年の第1次選挙法改正によって、新興ブルジョワ階級の代表たる自由党が、保守党に対して確固たる勝利を占めた後は、鉄道は成長産業と見なされ、株の売れ行きは上々、イギリス全国各地で雨後の筍のように鉄道会社が生まれた来た。1836年以後第一次鉄道新設ブームがやって来て、1836年から37年にかけて、千五百マイル以上の鉄道新設が議会で認可された。もちろん一つ一つ鉄道新設の法案が提出される度毎に、運河所有者、有料道路所有者、馬車屋などから、生活が脅かされ、既得権が侵害されるという反対がなされたのであるが、もはや怒濤のような鉄道建設ブームを抑制する力はなかった。このようにして、運河と馬車の時代は、あっという間にイギリスから姿を消して行く。<小池滋『英国鉄道物語』1979 晶文社 p.29-30>

世界史の中の鉄道

 19世紀末、鉄道は全世界的な規模で広がり、人類の新しい交通機関として不可欠なものとなった。交通機関の主役の座は20世紀の後半の旅客航空機の普及までの間、鉄道であった。それはまた、帝国主義の時代でもあった。大陸横断鉄道を1869年に完成させてさらに太平洋方面まで進出することを可能にし、イギリスはインドの鉄道建設を進めて植民地インドを収奪し、ロシアは東アジアへの進出を目指してシベリア鉄道を建設した。さらにドイツの3B政策にもとづくバグダッド鉄道建設計画は、イギリスとの帝国主義的対立をもたらし、第一次世界大戦の誘因となった。日本は日露戦争でロシアから利権を継承し、南満州鉄道会社(満鉄)を設立して満州支配の足場と知った。
 帝国主義列強はその他にも、勢力圏の獲得を鉱山開発権とともに中国の鉄道建設にみられるように鉄道敷設権を従属国に認めさせていったが、やがて民族資本かが成長すると鉄道経営権も次第に現地資本に移行していった。

鉄道(ドイツ)

1835年に鉄道建設始まり、1840年代に急速に普及した。

 1835年12月7日にドイツで初めての鉄道が、ニュールンベルクからフルトまでのわずか6キロで開通した。鉄道の速度も最初は時速30キロに過ぎなかったが、危険であるとか、医学的見地から鉄道は廃止すべきだといった意見も出された。1838年にはベルリン―ポツダム間、1839年にはライプチッヒ―ドレスデン間に鉄道が開通した。1840年代には全部で469キロにも達した。ドイツの鉄道建設は、1840年代のドイツの産業革命の牽引車となった。
 ドイツ(プロイセン)の鉄道建設の必要性を説いたのは、ドイツ関税同盟(1834年)の結成にも尽力した経済学者リストだった。リストはアメリカから帰国すると、ラインラントや南ドイツの企業家から援助を受け、鉄道建設の必要性を説いて回った。彼は「ドイツの鉄道網と関税同盟はシャム双生児である。同じ時に生まれ、共に成長し、一つの同じ目標を追求していた。つまり国家の防衛手段である。」と言っている。
 鉄道の普及と共に、線路の需要、機関車や貨車の需要が急増し、石炭と鉄の需要も急増した。1837年にアウグスト=ボルジッヒが設立したボルジッヒ工場は1854年には500両の機関車を製造し、4年後には1000両を製造していた。また1826年に再開されたクルップ商会は、1834年には鉄道用車両を生産に、後には大砲も生産、1700もの工場を擁した。その他各地に機械製造業が生まれた。石炭は当初はイギリスから輸入していたが、このころはルール、ライン、ザール、シュレージェンから供給された。<阿部謹也『物語ドイツの歴史』1998 中公新書 p.197,204>
軍事目的の鉄道建設  普墺戦争、普仏戦争でプロイセンを勝利に導いたとされるモルトケ将軍は、鉄道の戦略的意義に最も早く気がついた。
(引用)故モルトケ元帥はかつて「これ以上要塞は建設するな。鉄道を敷け」と命令した。彼は鉄道地図を基礎にして戦略を立て、鉄道が戦争のカギである、という信条を後世に残した。参謀本部の許可なしには、あたらしく線路を敷設したり、路線を変えたりすることはできなかった。毎年動員演習をおこなって、鉄道関係の役人をしじゅう実地訓練し、電報でどの線が遮断され、どこの橋梁が破壊されたかなどを通報して鉄道交通を規制したり変更したりする能力の試験がおこなわれた。陸軍大学卒業生中もっとも優秀と見なされたものは、鉄道関係の任務に着き、しまいには精神病院に送り込まれるしまつだったという。<バーバラ=タックマン/山室まりや訳『八月の砲声』1962 ちくま学芸文庫版 2004年刊 上 p.108>

鉄道(フランス)

1850~60年代の第二帝政で飛躍的に鉄道建設が進む。

イギリスの鉄道は1830年代に急速に普及し、さらにベルギー、ドイツ、アメリカで鉄道網の建設に着手されたが、フランスは大幅に遅れ、着手は40年代、本格的な鉄道網の建設は1850~60年代の第二帝政の時代、ナポレオン3世の下でサン=シモンの産業社会の考えに共鳴したペレール兄弟などによって進められた。

フランスが遅れた理由

 その一つは、ディリジャンスと呼ばれる大型乗合馬車とポストと呼ばれる郵便馬車制度がくまなく全土をカバーしていたからである。そのため鉄道の必要性がかんじられなかった。第二の理由は科学者が盛んに鉄道の危険性を主張したことである。蒸気機関車の出す煤煙の有害性や、スピードの人体への有害な影響、騒音や振動による沿線地価の下落などが懸念されていた。七月王政下の1838年に政府は鉄道網建設計画を議会に提出したが、否決されてしまった。その結果、フランスでは1838年のパリ~サン=ジェルマン、39年のパリ~ヴェルサイユなど郊外散策用の鉄道に止まっていた。ようやく1840年に議会で鉄道憲章が制定され、幹線鉄道建設の国家方針が定められたため、パリ~ルーアン、パリ~オルレアンの両鉄道がこの年に開通し、鉄道の時代に入った。

第二帝政下の鉄道ブーム

 第二帝政でナポレオン3世のブレーンにはミシェル=シュヴァリエなど、熱心なサン=シモン主義者が登用された。シュヴァリエはアメリカでの鉄道事業を視察し、産業の発展には鉄道の普及が不可欠であることを認識した。この時期に鉄道の建設が大きく進んだのは、それまでのロスチャイルド系の銀行が鉄道への投資に冷淡であったのに対し、新たに誕生したクレディエ=モビリエが積極的に投資を開始したからであった。1852年ルイ=ナポレオンが鉄道開発利権を99年まで延長する大統領令を発布して鉄道建設ブームが起き、1850年代がフランスの鉄道の黄金時代となった。1860年代にはロスチャイルド系銀行もクレディエ=モビリエのペレール兄弟に対して対抗的な鉄道に対する融資に乗りだし、熾烈な鉄道戦争が展開された。<鹿島茂『怪人ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 266-279>
 この結果、鉄道の総延長距離は、1850年の3600kmから1870年の2万3300kmまで延長され、列車による乗客輸送は4倍、貨物輸送は10倍に達した。

鉄道(アメリカ)

1827年に鉄道建設が始まり1840年代後半に急速に普及し、1869年に大陸横断鉄道が開通した。

 アメリカでは1827年に鉄道建設が始まった。1840年代後半に急速に発展し、広大な国土に鉄道交通網が作られ、また西部開拓とともに、西に向かって伸びていった。広大な範囲で鉄道を営業するには、その敷設に莫大な資本と資財、労働力が必要だっただけでなく、列車の運行には組織的な運営が必要であったので、会社組織は急速に近代化、巨大化していった。その代表的な例が、ペンシルヴェニア鉄道会社である。この会社は1846年に経営を開始し、1874年に営業キロ数が国内最大となった。同社は職能部門別の組織をもち、各部門の意志決定の系統を明確にして、直接に列車を運行する「ライン」と、間接的に関わる「スタッフ」の区別など、近代的な経営管理の基礎を作ったとされる。<『世界史を読む事典』1994 朝日新聞社 p.265>  アメリカでは、合衆国の西部開拓の帰結として南北戦争の最中の1862年に大陸横断鉄道の建設が始まり、1869年に完成したことが重要である。この大工事には、多くの中国人移民が苦力といわれて労働力となった。 → 華僑

インドの鉄道建設

イギリス帝国主義の支配下のインドで、アジア最初の鉄道建設が始まり、全土に広がった。

 インド大反乱の前の1853年、イギリスはアジア最初の鉄道を、ボンベイ(現ムンバイ)とその近郊を結んで敷設した。それ以後イギリスは、インド内陸の穀物、アヘン、綿花などを積出港まで運ぶための鉄道建設を積極的に進めた。19世紀末までに2万4800マイルに及んだ。鉄道の急速な伸びは、燃料の石炭を必要としたので、炭坑の開発も進み、重工業発達の基盤となった。鉄道建設はイギリス資本によって進められたものであり、そのインド帝国支配の動脈となった。

Episode 三種類のゲイジが混在するインドの鉄道

 インドの鉄道総延長キロ数は世界有数の国であるが、同時にこれほと錯綜したメチャクチャな鉄道網をもつ国は他にないのではないか。インドには鉄道は広軌(1.676m)、標準軌(1m)、狭軌(0.762または1.610m)の三つの軌道は、植民地時代のイギリス本位の鉄道建設の遺産なのである。おおよその分布は、カルカッタ、ボンベイ、マドラスなど大港湾都市を起点として内陸の農産物生産地帯に向かう幹線は広軌であり、1850年代から69年までの間に、元利保証鉄道会社によって建設された。これは政府が元本を保証してイギリスで資金を集め、大陸にあっているという理由で広軌が採用されたが、建設費がかさみ、経営も放漫で行き詰まった。インド政庁は1869年に政庁直営形式に改め、建設費を抑えるために標準軌にした。さらに各地の藩王国が独自の鉄道建設を開始したが、軌道がばらばらになってしまった。<吉岡昭彦『インドとイギリス』1975 岩波新書 p.137-145>

中国の鉄道建設

洋務運動の中で鉄道が開設されたが反対運動もあり普及が遅れ、19世紀末外国資本による建設が行われた。

 中国最初の鉄道は洋務運動の盛んだった1876年に上海と呉淞のあいだに開かれたが、二年後に政府はこの鉄道を買収して廃棄処分にした。鉄道反対の声が強かったためである。中国最初の外交官としてイギリスに渡った劉錫鴻は、ヨーロッパ文明をじかに体験して驚嘆したが、帰国後は鉄道建設に反対した。その理由は、鉄道が墓地の風水を破壊すること、中国は治安が悪いので列車の安全な運行を保証できないなどをあげている。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 中国の歴史10 講談社 p.68>
 19世紀末、帝国主義列強の中国進出が活発になり、中国分割が進行すると、それぞれ中国国内の鉄道敷設権を清朝政府から認められて、外国資本による鉄道建設と営業が始まる。特に、ロシアは三国干渉の見返りとして、1896年に東清鉄道の敷設権を獲得、さらに1898年には遼東半島南部を租借し、ハルビン―旅順間の南満州支線の敷設権を得て鉄道を建設し、満州進出を強めた。他に、この時、ドイツは山東鉄道、イギリスは香港と広州を結ぶ広九線、上海と南京を結ぶ滬寧線(こねいせん)、フランスは雲南とベトナムを結ぶ滇越線(てんえつせん)の敷設権をそれぞれ獲得した。これらの列強が敷設した鉄道は、現在も中国の鉄道路線の一部として使用されている。
 日露戦争でロシアを破った日本は、遼東半島南部の租借権を継承し、1906年に長春―旅順間の鉄道及び鉱山開発を行う南満州鉄道株式会社を設立した。
 清末になると、民族資本かが成長し、利権回収運動が盛んになり、いくつかの鉄道も外国資本から民族資本の手に移った。1911年には清朝政府が外国からの借款によって鉄道国有化政策を打ち出したことが、それに反発する民族資本家と民衆を動かし、辛亥革命が起こった。
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10章1節 イ.機械の発明と交通機関改良
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小池滋
『英国鉄道物語』新版
2006 晶文社