印刷 | 通常画面に戻る |

ドイツ連邦

1815年、ウィーン会議の結果、ウィーン議定書で成立した連邦。オーストリアが連邦議会議長を務めた。1866年の普墺戦争によって解体される。

ウィーン会議において合意されたウィーン議定書で、ナポレオンが樹立したライン同盟に代わって成立した、ドイツの連邦国家。35の君主国と4つの自由都市から構成された、全ドイツに及ぶ国家連合体であった。各国はそれぞれ独立国家として権限を保持しながら加盟し、フランクフルトに連邦議会を置いて代表を送った。連邦議会議長はオーストリアが務めることとなり、その主導権が認められた。その他の主要な加盟国は、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ハノーヴァーなど。ルクセンブルク大公国も加盟した。 → ドイツ

ドイツ連邦の性格

(引用)ウィーン会議でつくられたドイツ連邦は、神聖ローマ帝国に代わるドイツ諸国家(主権的諸港と自由都市)約40の連邦組織だが、これ自体、ヨーロッパの勢力均衡の縮図ともいえるものであった。そもそもハノーファーの君主はイギリス国王、ホルシュタインの君主はデンマーク国王、ルクセンブルクの君主はオランダ国王であって、ドイツ連邦といっても国際的な君主同盟に近いのである。・・・
 だからこれは到底ドイツの統一国家とは言えないものであった。ヨーロッパの勢力均衡のためには、ドイツは強力な統一国家などにならないほうがよい。それがむしろメッテルニヒの考えだったのである。民族統一など彼にとってはもとより論外であった。そもそも彼の率いるオーストリア帝国が、チェコ・ハンガリーから北イタリアにも伸びる多民族国家であって、この帝国自体、民族統一や民族自決などという原理とは全く相容れない性質の国なのである。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.125-126>

ドイツ連邦議会

 議会と言っても国民の選挙で選ばれた議員によって構成されるのではなく、かつての神聖ローマ帝国議会の後身とも言える、各国代表の集まる公使会議にすぎなかった。また、オーストリアが恒常的議長国となってその指導性が明確にされたが、実際にこの国がヘゲモニーを握ったわけではない。連邦国には国の大きさに応じて票が配分され、全69票のうちオーストリア・プロイセン・バイエルン・バーデンが各4票で一国が突出しないように分配されていた。

連邦内の自由主義運動

 ウィーン体制のもとで、ドイツ連邦でも、自由主義やナショナリズムの運動が強まり、1817年にはブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)の蜂起があったが、メッテルニヒは1819年にドイツ連邦諸国とカールスバードの決議を行い、言論統制・大学監視などの弾圧を強めた。メッテルニヒは各国の権力を握る貴族、大地主層の地位と利益を守ることに力を注いだのだった。1830年にフランスの七月革命で絶対王政が倒され、ブルジョワを主体とする立憲王政の七月王政が成立したことの影響がドイツにも及んでドイツの反乱が各地で起き、ザクセン、ハノーヴァーなどでは憲法が制定された。しかし各国の運動は分断されて、ドイツ全体の運動には発展せず、軍隊の力で抑えつけられてしまった。

ドイツ連邦の解体

 ドイツ連邦はウィーン体制の時代を通じて存続したが、各国はそれぞれ国王政府と議会を持ち、それぞれ異なる政策を掲げたので、まとまりは弱かった。1848年にベルリンとウィーンで三月革命が勃発すると、ドイツ民族の統一が叫ばれ、フランクフルト国民議会が開催され、ドイツ連邦は実質的に権能を停止した。しかし国民議会自身も大ドイツ主義と小ドイツ主義の対立、言い換えればオーストリアとプロイセンの主導権争いの結果空中分解して、ドイツ連邦は形の上で復活した。ドイツ統一の主導権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立は、ついに1866年に普墺戦争として火を噴き、プロイセンの勝利に終わると、プラハ条約が締結されてドイツ連邦は正式に解体、消滅した。プロイセンは1834年にドイツ関税同盟を結成、それをテコとして経済的統一を進めており、普墺戦争の勝利を機に、翌1867年にプロイセン王を中心とする北ドイツ連邦を結成、さらに普仏戦争での勝利によってプロイセン王を皇帝とするドイツ帝国を樹立することとなる。一方のオーストリアは同年、オーストリア=ハンガリー(二重)帝国となる。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章1節 ア.ウィーン体制
書籍案内

坂井榮八郎
『ドイツ史10講』
2003 岩波新書