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領邦

中世以来の神聖ローマ帝国領内の独立的な有力諸侯の領地。ラント。12~13世紀には300ほど存在、1356年には金印勅書で有力7選帝侯が指名される。三十年戦争後のウエストファリア条約で領邦国家として主権が認められた。

 13世紀以降、神聖ローマ帝国内に成立した、地方の独立政権。一般に「ラント」というが、領邦国家にあたるドイツ語は Territorium 。ドイツではドイツ王(神聖ローマ皇帝)が、イタリア政策などに専念したため、国家的な統一が進まず、各地に有力な聖俗の諸侯が分立し、領邦を形成していった。12~13世紀に領邦の形成がすすみ、大小併せて約300とも言われる。また、東方植民の過程で、東部辺境に有力な辺境伯が生まれ、それらも領邦を形成した。
 ドイツ王(神聖ローマ皇帝)はそれらの領邦間で選出される慣行であったが、1356年の金印勅書によって、聖俗七人の選帝侯に限定された。これらの領邦は貨幣鋳造権、関税徴収権などの特権が認められ、実質的な独立国家の性格を持つに至る。それ以外にもバイエルン、オーストリアなどが有力な領邦として存在した。15世紀以降はオーストリアを本拠地として、ヨーロッパ各地に広大な所領を持つに至ったハプスブルク家が特に有力になる。

領邦間の宗教戦争

 ドイツの約300に上る領邦(ラント)は、裁判権や貨幣発行権などを持つ実質的な国家として存在していた。名目的にはその上に神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家が君臨していたが、その権力は領邦内部には及ばなかった。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国(つまりドイツ)の領域外の北イタリアやネーデルラント、スペインなどもその所領としたが、肝腎のドイツではオーストリアを支配するだけであった。16世紀には宗教改革の嵐が巻き起こり、領邦はそれぞれ新旧両派に分かれ、シュマルカルデン戦争などの宗教戦争を戦うこととなった。1555年のアウクスブルクの和議で一応、新教信仰は認められたが、領邦の領主の信仰がその地におこなわれるという領邦教会制がとられることとなった。また15世紀末から16世紀前半まで続いたフランスとのイタリア戦争はハプスブルク家の財政をも困窮させ、その支配力は次第に衰えていった。

領邦国家の分立

 ドイツの領邦への分離は17世紀前半の三十年戦争で決定的になった。1648年のウェストファリア条約ではついにドイツの諸侯は国際的にも独立した主権が認められ、約300の領邦はそれぞれが主権国家となった。こうしてドイツは多くの領邦国家(ラントステーツ)に分裂することとなった。神聖ローマ皇帝はその後も1806年まで名目的な地位を維持したが、実質的にはこのウェストファリア条約が「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われている。  → ドイツ統一問題