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小ドイツ主義

ドイツ統一問題で、オーストリアを含まず統一しようとする主張。プロイセン主導で進められた。

 ウィーン議定書で成立したドイツ連邦は、独立性の強い国家の連合体であり、その中の大国オーストリアとプロイセンが主導権を争っていた。19世紀前半のナショナリズムの高揚する中、ドイツにおいても国民国家としての統一を遂げようという運動が起こり、どのような形態で統一を実現するか、ドイツ統一問題が起こってきた。1848年に三月革命がおこり、この両国で自由主義的な政府が成立し、メッテルニヒが退陣したことで一気に統一の機運が高まり、フランクフルト国民議会が開催され、国家の統一と統一憲法の制定についての議論が開始された。
 その時ドイツ統一の方向性を巡って、相対立する二つの路線が対立した。一つは、ドイツ人の居住する地域すべてを包含する大ドイツ主義である。この考えでは、オーストリア帝国の半分のドイツ人居住地を含むことになり、それを具体化すれば、オーストリア帝国はドイツ国家とそれ以外のハンガリーなどの民族国家に分かれることになり、理念は別として現実問題としてオーストリアは受け容れられない案であった。そこで、オーストリアのドイツ人居住地域を除いた地域でのドイツ国家の統一をめざす小ドイツ主義が生まれた。

フランクフルト国民議会の不首尾

 国民議会の大勢は大ドイツ主義であったが、また1848年の諸国民の春と言われた支配領域内の民族独立運動を抑圧することに成功したオーストリアが強硬に反対し、オーストリア帝国の不可分を宣言し、それを盛り込んだ憲法を制定した。そのため、国民議会はやむなく小ドイツ主義を結論としたが、オーストリアを除いたドイツ人国家と言えばプロイセン王国がその中で最も有力であったので、プロイセン王国の国王をドイツ国家の君主として迎えようとした。ところが、プロイセン国王がそれを受けなかったため、小ドイツ主義によるドイツ統一も宙に浮き、実現しなかった。

小ドイツ主義の実現

 その後、プロイセン王国に宰相ビスマルクが登場し、強力な指導力のもとに鉄血政策と言われる軍事国家化を進め、19世紀後半にデンマーク戦争普墺戦争普仏戦争というドイツ統一戦争とも言われる三つの戦争に勝利して、1871年にプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立、結果としては小ドイツ主義によるドイツ統一が実現した。小ドイツ主義というより大プロイセン主義といってよい、プロイセンの圧倒的な主導権によるドイツ統一であり、オーストリアはドイツ統一から除外されることとなった。
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第12章2節 カ.ドイツの統一