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フランクフルト国民議会

1848年、三月革命後に開催されたドイツ統一と憲法制定をめざす会議。

 1848年のウィーンおよびベルリンの三月革命の後、ドイツの統一の気運が高まり、5月にフランクフルトに召集された「憲法制定ドイツ国民議会」のこと。ドイツ統一と憲法制定を目ざしたが、君主政と共和政の対立、大ドイツ主義小ドイツ主義の対立によって紛糾し、統一を実現できず、翌49年6月に解散させられた。 → 1848年革命

国民議会の開催

 1848年5月、フランクフルト=アム=マインの聖パウロ教会に召集されてたドイツ最初の選挙による議会が開催された。ドイツ連邦の全域から普通選挙で選ばれた議員の職業構成は裁判官・検事157名、行政官吏118名、弁護士66名、教師57名、大学教授49名などであった。他に農業経営者60名、商人46名、手工業者4名。6月にはオーストリアのヨーハン大公が「ドイツ国摂政」に任命され、そのもとにドイツ中央政府も組織され、従来のドイツ連邦議会は活動を停止した。議会ではドイツ統一の方式、憲法の制定などを話し合ったが、次のような対立から紛糾した。

ドイツ統一問題

 ドイツ統一問題はこの会議の主要なテーマだった。大ドイツ主義とは、オーストリアベーメンのドイツ人居住地域を含む旧ドイツ連邦全域(ドイツ人の居住する地域)の統一したドイツ国民国家をめざすものであり、小ドイツ主義は多民族国家であるオーストリアとベーメンを含まず、プロイセン主導で統一を図ろうとするものである。はじめは大ドイツ主義が優勢であったが、オーストリア帝国は大ドイツ主義をとれば、北イタリアやハンガリー・チェコの非ドイツ地域が排除されることになるので強く反発した。おりから、ハンガリー、チェコ、北イタリアで民族独立運動が起き、プラハではスラヴ民族会議が開催された。オーストリア政府はそれらを厳しく弾圧し、49年3月、オーストリア帝国の単一・不可分を宣言した欽定憲法を発布し、大ドイツ主義は最終的に否定された。こうして小ドイツ主義でやむなしとなって、同月「小ドイツ的」なドイツ帝国憲法が成立した。

国民議会の解散

 フランクフルト国民議会は1949年3月、ドイツ帝国憲法を採択し、世襲皇帝としてプロイセン王国の国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世を選出したが、彼は「議会の恩恵による」帝位につくことを拒否し、憲法は宙に浮く。結局、プロイセンとオーストリアなど主要国が憲法を否認したため憲法は流産した。議会は解散されることとなり、一部の急進的な共和派が蜂起して議会の継続と統一憲法の制定をめざした(帝国憲法闘争)が、プロイセンの軍隊によって鎮圧され、ドイツ統一を目ざす革命は失敗に終わった。<この項、坂井栄八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.129-133 などによる> 
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ノートの参照
第12章1節 オ.1848年革命