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エジプトの保護国化

イギリスはウラービーの反乱を鎮圧して1882年、実質的なエジプト保護国化を行い、第一次世界大戦開戦に伴い、1914年に正式に保護国とした。大戦後の民族運動の高揚をうけ、イギリスは1922年にエジプト王国の独立を認めたが、スエズ運河地帯での駐兵権などは継続させた。

 ムハンマド=アリー朝のエジプトは、対外戦争と近代化政策によって支出が増大し、負債が膨大になった。イギリスは1875年、スエズ運河株を買収し、エジプトへの経済進出をつよめていった。エジプトの財政状況は1876年には破綻して、イギリス・フランスの列強による国際管理下に置かれることとなった。
事実上の保護国化  1881年、エジプトにウラービーの反乱が勃発すると、イギリスは軍事介入し、翌82年、アレクサンドリアに上陸して反乱軍に砲撃を加え、鎮圧した。これによってエジプトはイギリス軍の単独軍事占領下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。1904年には英仏協商が締結され、イギリスはフランスのモロッコ支配を認める代わりに、フランスにイギリスのエジプト支配を認めさせ、帝国主義諸国による植民地分割が行われた。
正式なの保護国化  こうして1882年にエジプトはイギリス領に実質的に組み組まれたが、形式的にはオスマン帝国の宗主権が続いていた。ところが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ・オーストリア側に参戦したため、イギリスは正式にエジプトを保護国とすることをオスマン帝国に通告した。第一次世界大戦ではエジプトのカイロは、イギリスの対オスマン帝国とのアラブ各地での戦闘の拠点とされた。
保護国の解消  第一次世界大戦後の民族自決の主張と共に、アジア・アフリカの被植民地地域の民族の独立運動が活発になっていった。エジプトでもワフド党が結成され、完全な独立を要求するようになった。イギリスは1922年にエジプト王国の独立を認め、その懐柔をはかった。しかし、スエズ運河地帯と、エジプトの南に隣接するスーダンへのイギリス軍の駐留権は依然として手放さず、スエズ運河支配を維持したので、エジプトは完全な独立を達成したとは言えなかった。
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ノートの参照
第13章1節 イ.アラブ民族のめざめ