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ワフド党

第一次世界大戦後の1919年、エジプト王国の完全独立を求める運動を起こした組織。ワフドとは代表の意味。1924年には政権を握るが、そのイギリスへの譲歩に対する不満が強まり、1952年のエジプト革命が起きる。

 エジプトムハンマド=アリー朝は形式的には存続していたが、19世紀末以来、イギリス・フランスの財政管理下に置かれ実質的にはその支配を受けていた。1881年、「エジプト人のエジプト」を標榜するウラービー革命が起こり、一時は憲法の制定などに成功したが、翌1882年9月にイギリスの武力によって弾圧され、イギリスによって実質的にエジプトの保護国化が行われた。

イギリスの保護国から独立を目指す

 しかし、第一次世界大戦を機として、世界的な民族主義の高揚が起こり、民族自決を求める声が強くなる中、大戦後のエジプトにおいてもイギリスに対し保護国の解消、完全独立を求める民族主義運動が活発になった。その運動を指導したサアド=ザグルールは、ギリスに対し、エジプトを独立国として扱い、第一次世界大戦後のパリ講和会議に代表団を送ることを要求した。このグループは「代表」の意味するワフドから、ワフド党といわれるようになった。
1919年革命 1919年3月、イギリスがワフド党の要求を拒否したことから、エジプト全土でデモやストライキなどの反英闘争が起こった。イギリスはザグルールらを捕らえマルタ島に送還し、運動を弾圧した。弾圧されたもののこの1919年革命は、イギリス保護国支配に対する最初の反乱となった。
 その後、イギリスは民族主義運動に一定の妥協を行い、保護国体制を転換させ、名目的な独立を与え、その代わりにスエズ運河などの軍事的支配権をイギリスが押さえるといういう姿勢を採るようになった。

エジプト王国の独立とワフド党政権

 イギリスは1922年、防衛権を保持した上で名目的な独立を認め、エジプト王国が成立した。1924年にワフド党が内閣を組織し、1936年にはエジプト=イギリス同盟条約を締結して、イギリスのスエズ運河地帯の軍隊駐留権などを認めた上で実質的な独立を獲得した。しかし、この譲歩に対して不満な民族主義運動がさらに強まっていった。
 第二次世界大戦後のエジプトにとって、1948年のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)の敗北は、王政とワフド党政権に対する批判を強めることとなり、1952年にナセルなどの自由将校団のクーデターによって王制と共にワフド党政権は倒され、エジプト革命へと突入していくこととなる。
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