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ムハンマド=アリー朝

1805年のムハンマド=アリーのエジプト総督就任から始まる近代のエジプトの王朝。実質は独立国だが形式的にオスマン帝国の宗主権下にあった。また1881年からは実質的に、1914年からは正式にイギリスの保護国となってその支配を受けた。第一次世界大戦後の1922年に自立してエジプト王国となったが、第二次世界大戦後の1952年のエジプト革命で倒された。

ムハンマド=アリー

 ムハンマド=アリーはオスマン帝国軍傭兵隊長としてナポレオンのエジプト遠征軍との戦いから頭角を現し、1805年、エジプト総督に任命された。1807年にはマムルーク勢力を一掃してエジプトの実権を握り、さらにエジプトの富国強兵をはかる近代化政策を推進した。その間、周辺のアラビア半島、スーダンに勢力を伸ばしていった。1831年からはオスマン帝国からの分離独立をめざし、エジプト=トルコ戦争を戦い、一時はシリアも支配下に入れた。西欧列強の干渉を受けてシリアは放棄したが、1841年エジプト・スーダンの総督の地位の世襲化を国際的に認められ、エジプトの「ムハンマド=アリー朝」を開いた。 → オスマン帝国領の縮小

ムハンマド=アリー朝のエジプト

 1805年にムハンマド=アリーエジプト総督(ワーリー)に任命されてた時から始まるとされるが、その地位の世襲が認められたのはエジプト=トルコ戦争後の1841年である。
 この時期のエジプトは、形式的にはオスマン帝国宗主国とし、スルタンから任命されるとして治める、いわば「自治州」のような存在であった。

スエズ運河の建設

 1854年に始まるスエズ運河の建設事業はエジプトにとっては自立をアピールする格好の機会となり、フランス人レセップスはエジプトと結んでその事業を推進したが、イギリスはオスマン帝国と結んでそれを妨害しようとした。難事業であった運河建設が1869年に開通したことは、エジプトが実質的独立国として世界に承認される意義を持っていた。

総督から副王へ

 スエズ運河建設中の1867年、第5代の総督イスマーイールから副王(ヘティーブ)と称し、自立を図り、実質的には君主としての統治権を持つようになった。副王の地位も形式的にはスルタンの臣下であることには変わりはなかったので、完全な主権国家とは言えず、半独立国という状態であった。そこでエジプトはオスマン帝国の影響力を排除することを目指し、その過程でフランスとイギリスという列強との関係が強まっていった。

イギリスの保護国となる

 しかし、ムハンマド=アリー朝のエジプトは、ムハンマド=アリーの対外戦争と近代化政策によってすでに財政難に陥っていた。それでもムハンマド=アリーは外債に依存することをさけていたが、その死後の君主たちは、安易に外債に依存した。その結果、負債が膨大になり、ついに1875年、スエズ運河株をイギリスに売却した。それでも財政状況は好転せず、翌76年にはついに破綻して、イギリス・フランスの列強による国際管理下に置かれることとなった。特にイギリスの介入が強まる中、1881年のウラービーの反乱(ウラービー革命)が勃発したが、イギリス軍の軍事介入によって鎮圧されてしまい、以後は実質的にエジプトの保護国化が進むこととなる。帝国主義による植民地分割によって、エジプトはイギリス領に組み組まれたのであり、1904年には英仏協商が締結され、フランスはイギリスがエジプトを勢力圏とすることを認めた。第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ・オーストリア側に参戦すると、イギリスは正式にエジプトを保護国とすることをオスマン帝国に通告した。

エジプト王国(20世紀)

 エジプトの保護国となったエジプトでも、第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激され、民族主義が高まってきた。エジプト人の手による議会の開設や政府の樹立を要求するワフド党が組織され、彼らは代表をパリ講和会議に送ってエジプトの独立を世界に訴えた(ワフドとは「代表」の意味である)。
 イギリスも、大戦後の1922年に、エジプトを保護国とすることをやめ、正式にムハンマド=アリー朝のものでの「エジプト王国」として独立を認めた。ただしこの時点では、イギリスはエジプトの防衛権とスーダンへの駐兵権をそのまま維持していたので、完全な独立とは言いがたかった。
 1924年にはワフド党政権が成立し、イギリス政府との折衝を重ね、1936年のエジプト=イギリス同盟条約でイギリスはエジプトの完全な主権を認めた。そかしそれでもなお、イギリス軍は運河地帯とスーダンへの駐屯は継続した。特にスエズ運河はインド支配にとって要になると考えられたからであった。

エジプト王国の消滅

 第二次世界大戦末期の1945年3月には、エジプト王国の国王ファルークは他のアラブ諸国と共にアラブ諸国連盟を結成した。それは、大戦中にイギリスがユダヤ人に対するバルフォア宣言によって、パレスチナへのユダヤ国家建設を認めたため、ユダヤ人の移住が始まり、アラブ人との衝突が始まったからであった。ユダヤ人が国際連合の決議を受けてイスラエルを建国すると、アラブ諸国連盟はそれを阻止しようとして、1948年にパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が始まった。エジプト王国もその盟主として戦ったが、王政とワフド党政権の下で十分な訓練もなかったエジプト軍は、イスラエル軍に大敗した。
 これは、王政に対する不満を爆発させることとなり、ナギブとナセルなどの青年将校が1952年に立ち上がって、エジプト革命を起こすと、国王ファルークは追放されてムハンマド=アリー朝エジプト王国は終わり、翌年、エジプト共和国が成立する。