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英仏協商

1904年成立のイギリスとフランスの帝国主義勢力分割協定。エジプトとモロッコの権益を相互に承認した。

内容はエジプトモロッコにおける権益を相互承認する勢力圏分割協定。これは露仏同盟および英露協商とともに、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を構成する。

英仏協商の成立

 帝国主義政策を採るイギリスとフランスは19世紀末にアフリカ分割で衝突し、ファショダ事件が起こったが、その後ドイツのヴィルヘルム2世が世界政策を推し進め、モロッコなどのアフリカや中東への進出を強めてきたことをともに警戒するようになり、20世紀に入り両国は急速に接近することとなった。それは1904年、極東では日露戦争の勃発直後であった。

協商の意味と内容

 英仏協商の協商とは Entente(アンタント)の訳で、商業上の約束ということではなく、全般的に協力し合おうという協定のこと。限定的には1904年の協定をさすが、一般的にはそれを含めたこの時期のフランスとイギリスの親善関係全般を指している。具体的な内容は、エジプトとモロッコに関する次のような協定を中心としており、さらに東南アジアにおける勢力圏分割も協定された。
エジプト ムハンマド=アリー朝のエジプト王国については、イギリスはエジプトの法的地位を変更しないことを約し、フランスはエジプトの行動を妨害しないことを約束した。
モロッコ フランスはモロッコの法的地位を変えないことを約し、イギリスはフランスの行動を妨害しないことを約束した。
 この英仏協商でフランスのモロッコ進出が容易になったことに反発したドイツのヴィルヘルム2世は、同年の第一次モロッコ事件を起こしてモロッコ進出を図ったが、成功しなかった。
タイ(シャム) イギリスはビルマを併合し、フランスはフランス領インドシナを獲得しており、その中間にあったタイ(シャム)を巡って激しく抗争していた。この英仏協約では、チャオプラヤ川(メナム川)を境界線として西部をイギリス、東部をフランスの勢力圏とすることで妥協した。タイのラタナコーシン朝は両国のバランスをとりながら、名目的な存続を続けることができた。
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ノートの参照
第14章2節 エ.列強の二極分化とバルカン危機