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イラン=ロシア戦争

19世紀前半、2次にわたるイランのカージャール朝と南下政策を採るロシアとの戦争。ロシアが領土を獲得し、不平等条約を押しつけた。

19世紀のロシアはその広範囲な南下政策の一環として、イランおよびアフガニスタン方面にも侵出し、イラン(当時は正式にはまだペルシア)のカージャール朝との間で二度にわたる戦争を行い、侵略を進めた。

第1次イラン=ロシア戦争

 イランの領土であったカフカス地方(コーカサス地方)の領有を目指すロシアは、1804年にイランのカージャール朝との戦争を起こして勝利し、1813年にゴレスターン条約を締結して、カフカス地方のグルジアと北アゼルバイジャンを獲得した。

第2次イラン=ロシア戦争

 1826年、ロシアは再びイランとの戦争を開始し、士気の上がらないイラン軍を破り、1828年に不平等条約であるトルコマンチャーイ条約を押しつけた。それによってイランは古都タブリーズとともにカフカス地方をロシアに割譲した。さらに同年、ロシアはオスマン帝国とのロシア=トルコ戦争の戦端を開いた。このようなロシアの中央アジアから西アジアにかけての南下政策はイギリスのインド支配を脅かすものとして、イギリスは強く警戒するようになった。

アフガニスタンを廻る情勢

 1837年、ロシアはイランのカージャール朝に命じてアフガニスタン西部の古都ヘラートへの侵攻を行わせると、イギリスはアフガニスタンへの積極介入に転換し、アフガニスタンを「緩衝国家」とすることをめざし出兵した。この第1次アフガン戦争ではイギリスはイランに対しアフガニスタンが独立国であることを認めさせたが、アフガニスタン人の激しい抵抗を受け、現地では敗れて撤退した。その後、第2次アフガン戦争(1878~80年)でもイギリスは外交交渉でアフガニスタンを保護国にすることに成功したが、現地のアフガン人の反撃を受け戦闘では敗北した。
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ノートの参照
第13章1節 エ.イラン・アフガニスタンの動向