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イラン/イラン系民族

西アジアから中央アジアまで広く活動したインド=ヨーロッパ語族。アケメネス朝、パルティア、ササン朝の大帝国を成立させペルシアとも言われた。ゾロアスター教など独自の文明を発展させたが、前7世紀にイスラーム化した。16世紀サファヴィー朝からはシーア派国家として存続している。

 イラン人はインド人と同じくインド=ヨーロッパ語族に属し、紀元前2千年紀に南ロシアのステップ地帯から南下し、イラン高原に入ったらしい。その過程でイラン高原西部のメディア人、東部のペルシア人などに分化した。後にペルシア人のアケメネス家が全イランを統一したので、イランとペルシアは同義語となった。世界史上は現在のイランだけではなく、中央アジア、西アジア、北インドにかけて広く活動していた民族。ゾロアスター教に代表される独自のイラン文明を発展させ、前6世紀からは、アケメネス朝ペルシア帝国が西アジアを征服し、ギリシアへの進出を図ったが失敗し、前4世紀末にはアレクサンドロス大王の東方遠征によって征服された。その後もヘレニズム諸国のセレウコス朝シリアの支配が続いたが、パルティアが自立してイラン文化を復興させ、ついでササン朝ペルシアが西アジア全域の帝国支配を再現した。この間、地中海世界のローマ帝国と西部国境で激しく争ったため、次第に国力が衰え、7世紀にイスラーム勢力がイラン高原に侵攻したことによってササン朝は滅亡した。それによってイラン高原はイスラーム化し、イスラーム帝国のアラブ人の支配者を受けることとなったが、イラン人はその文化を融合させ、イラン=イスラーム文化が生み出された。その後もトルコ人のセルジューク朝、モンゴル人のイル=ハン国ティムール朝の支配支配を受けるがそれらもいずれもイスラーム強国であった。16世紀にサファヴィー朝が成立するが、ここからはイスラーム教シーア派国家として独自の道を歩み、西のオスマン帝国、東のムガル帝国と抗争しながらシーア派を定着させた。近代においてはイギリス・ロシアの帝国主義が石油資源をめざして進出したため苦境に立たされたが、20世紀にパフレヴィー朝が独立を回復、1935年には国号をイランとした。しかし第二次世界大戦後はその世俗化、欧米への従属政策に反発したシーア派宗教指導者によって1979年のイラン革命が起こされ、シーア派主体のイスラーム宗教国家へと転化し、現在に至っている。
 → (1)古代のイラン系国家  (2)イラン系民族のイスラーム化  (3)イスラーム化後のイラン  (4)シーア派国家の成立  (5)18~19世紀イランの混乱  (6)20世紀前半 パフレヴィー朝  (7)第二次世界大戦後のイラン  (8)イラン革命とイラン=イスラム共和国

(1)古代のイラン系国家

アケメネス朝ペルシア

 イラン人はアッシリア帝国及びメディア王国の支配を受けていたが、前6世紀に自立してキュロス2世が前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国、新バビロニア、エジプトを征服して西アジアに大帝国を建設した。その本拠地がイラン高原のペールス地方だったので、彼らはペルシア人とも言われた。ペルシア帝国はイラン高原とその周辺のメソポタミア、小アジア、エジプトなどの西アジア全体を支配する世界帝国として繁栄し、前6世紀末のダレイオス1世(大王)は都のペルセポリススサを結ぶ王の道を中心とした駅伝制を整備、全土を州に分けてサトラップを置き、中央から王の目、王の耳を派遣するなど中央集権支配を行い、全盛期となった。アケメネス朝の王はいずれもゾロアスター教を信奉したが、他の宗教(ユダヤ教など)にも寛容であった。しかし独自の文字を持つことはなく、王の業績を記した多数の石碑を遺しているが、それらはオリエント古来の楔形文字で記されている。民間では商業民族のアラム人が活動し、商取引ではアラム文字が使われていた。
 ダレイオス1世は、ギリシア遠征を企てペルシア戦争を起こしたが、その後も含めて数度にわたって行われた遠征は、ギリシアのポリス連合軍に敗れ、失敗した。前4世紀後半にはマケドニアのアレクサンドロスの侵攻を受け、前330年にペルシア帝国は滅亡した。

セレウコス朝シリアの支配

 アレクサンドロスの大帝国は前323年、大王が急死した後、ディアドコイと言われる後継者たちによる争いによって分裂、イラン高原を含む西アジアはセレウコス朝シリアが支配した。この国はヘレニズム三国の一つであり、ギリシア人(マケドニア人)が支配していたが、そのもとでギリシア人とイラン人の融合が進み、ヘレニズム文化が形成された。

パルティア

 セレウコス朝の支配下にあったイラン高原北部の遊牧イラン人であるパルティア人が次第に自立の勢いを示し、前3世紀の後半にパルティアを建国した。パルティアの王は、初めは「ギリシア人を愛するもの」という称号をもつなどヘレニズムの影響が強かったが、次第にゾロアスター教の信仰などのイラン文明を復興させていった。この頃地中海世界を統一したローマがオリエントにも進出してきたため、びたびローマ軍と戦うこととなり、前53年にはローマの将軍クラッススを破っている。しかしローマと激しい抗争は次第に国力を失わせ、衰退した。

ササン朝ペルシア

 226年に農耕イラン人ササン朝ペルシアを建国した。ササン朝の成立事情は不明な点が多いが、初代アルデシール1世はアケメネス朝ペルシアの国家理念を受けつぎ、ゾロアスター教の主神アフラ=マズダの代理人として統治するという姿勢を復活させた。その立場からこの時代にゾロアスター教が国教として確立したと言うことができる。しかし次のシャープール1世は、そのころバビロンに始まったマニ教に傾倒し、一時ゾロアスター教は後退した。シャープール1世は260年のエデッサの戦いでローマ帝国皇帝ウァレリアヌスを捕虜としている。6世紀のホスロー1世は中央アジアに興ったエフタルを撃退し、ビザンツ帝国と互角に戦った。またこの時、聖典アヴェスターが編纂されるなど、ササン朝の文化が開花した。イラン文化はシルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えた。

イスラーム化の開始

 しかし、長期にわたるビザンツ帝国との抗争は次第に国力を奪い、その間にアラビア半島に興ったイスラーム教勢力がササン朝領に侵攻を開始、642年のニハーヴァントの戦いに敗れてササン朝は急速に弱体化し、651年に滅亡した。それによってイラン人のイスラーム化が急激に進むこととなるが、イランおよび西アジア史は大きく転換する。

中央アジアのイラン系民族

 一方、モンゴル高原で活動していた月氏もイラン系とする説が強い。彼らは匈奴に追われて紀元前2世紀の前半に、パミール高原を超えて移住し、大月氏国を建てた。漢の武帝が匈奴を挟撃するために張騫を派遣した国である。この西トルキスタンからカスピ海東岸一帯の草原地帯ですでに活動したイラン系遊牧民族は月氏に押されて南下し、パルティアとともにインドに侵入した。彼らはインドではサカ(シャカ)族と言われている。なお、大月氏に支配されていたバクトリア地方の一部族であったクシャーナ人が自立し、1世紀に北インドに入ってクシャーナ朝を建てたが、彼らもイラン系と見られている。また中央アジアのソグディアナを拠点に5世紀ごろから活動が目立つようになるソグド人もイラン系である。彼らはオアシスの道(シルク=ロード、絹の道)での交易に従事し、唐の都長安でも活動していた。

(2)イラン系民族のイスラーム化

アラビア半島に起こったイスラーム教が及び7世紀前半からイラン系民族のイスラーム化が進んだ。

 7世紀の前半、アラビア半島のアラブ人の中で起こったイスラーム教は、急速な勢いで周辺に拡大していった。651年にイスラーム勢力はササン朝ペルシアを倒してイラン高原に勢力を伸ばしてきた。イラン人はササン朝の国教であったゾロアスター教徒が多かったが、彼らはイスラーム教徒から「啓典の民」として扱われた。イスラームの教えは階級や貧富の差を超えて「平等」と「統一」を説いたので、ササン朝の専制支配と階級支配のもとにあった多くのイラン人は、イスラームに改宗していった。ウマイヤ朝時代にアラビア語が帝国の公用語とされたため、ペルシア語にアラビア語の要素が入るようになり、文字もアラビア文字が使われるようになった。
シーア派とイラン ウマイヤ朝の成立に伴って、イスラーム教徒の中にカリフの地位をめぐって分派であるシーア派が生まれた。イランのムスリムのなかにはシーア派が多かったがその事情は、4代目正統カリフのアリーとムハンマドの娘ファーティマの間に生まれたフサインは、捕虜となったサーサーン朝の王女と結婚したという伝説があったからであった。ゾロアスター教からイスラーム教に改宗したイラン人は、アリーの血統のなかにササン朝の王家の血が流れているとして、シーア派を支持したのだった。

イランにおけるイスラーム国家

 750年のアッバース朝の成立にはホラーサーン地方のイラン人が大きな役割を果たし、大臣や官僚としてその政治を支える者も多かった。アッバース朝カリフもイラン人に大いに依存したので、首都をイランに近いバグダードに設け、ササン朝王宮の伝統を復活させた華麗なものとした。
 9世紀、アッバース朝が衰退すると、イラン人やトルコ人でアミールに任命されたものが地方王朝を樹立するようになり、イランではまず東部にターヒル朝、次いでサッファール朝が生まれ、中央アジアではサーマーン朝が登場、特にサーマーン朝(9~10世紀)はイラン高原も併合して最初の実質的な独立王朝となり999年まで続いた。一方、カスピ海南岸から起こったイラン系ブワイフ朝は946年、バグダードに入りアッバース朝カリフから大アミールの称号を与えられて軍事政権を樹立した。

(3)イスラーム化後のイラン

トルコ系王朝、モンゴル系王朝の支配下で、イラン人は文化の担い手となり、イラン=イスラーム文化を開花させる。

トルコ系王朝・モンゴル系王朝とイラン人

 9~10世紀にトルコ系民族がモンゴル高原周辺から移動して中央アジアに入って定住化すると、イラン人もトルコ語を話すなど中央アジアのトルコ化が進み、トルコ人支配層に同化してトルキスタンという呼称が成立した。こうしてイラン人はトルコ化したが、ガズナ朝やセルジューク朝などトルコ系国家ででも重要な役割を果たした。その後イランは12世紀末から13世紀にかけて、北方のホラズム王国に支配され、次いでモンゴルのフラグの遠征によってイル=ハン国が成立するとその支配下に入った。15世紀は、中央アジアから起こったティムール朝の支配下に入った。

イラン=イスラーム文化の発展

 この間、イラン人は政治的には被支配民族に甘んじることとなったが、その文化的伝統から官僚や学者、芸術などでは依然として中心的な役割を果たし、イラン=イスラーム文化を生み出した。イスラーム化したイラン人は、イスラーム諸王朝のもとで、主として官僚やイスラーム法学者など知識人として遇された。それはイラン人はアケメネス朝以来の長い国家統治の経験を持ち、文化伝統を持っていたからであり、征服者であるアラブ人もイラン人をその方面で活用しようとした。同じくイスラーム化したトルコ人が、主として軍人(マムルーク)としてイスラーム諸王朝に活用されたのと好対照である。
 そのようなイラン人の例として、11世紀のトルコ系のセルジューク朝の宰相として活躍したニザーム=アルムルク、13世紀後半のイル=ハン国の政治家であり、『集史』を編纂した学者でもあったラシード=アッディーンらがあげられる。

(4)シーア派国家の成立

16世紀、イスラーム神秘主義教団がイランを支配し、シーア派国家サファヴィー朝が成立する。

サファヴィー朝

 ティムール朝(スンナ派)の衰退に従って、アゼルバイジャンで台頭したのがイスラーム神秘主義の中から生まれた神秘主義教団の一つのサファヴィー教団だった。サファヴィー教団は、小アジアのトルコ系遊牧民からなる騎馬部隊キジルバシュを軍事力としして急速に力を増し、イランに侵攻した。
 1501年、イランのタブリーズを征服した教団の教主イスマイール1世サファヴィー朝の建国を宣言し、イラン人の伝統的な君主の称号であるシャーを称した。その際、シーア派の分派である十二イマーム派を国教とすることを宣言した。教主であるイスマーイール1世は、十二イマーム派の信仰である「隠れイマーム」の代理人と称した。
 それまでイラン人はイスラーム教のスンナ派が多数であったが、サファヴィー朝成立を機に、シーア派国家に転身した。また、当初の神秘主義教団としての性格は次第に薄れ、シーア派信仰による統治が強められていった。イマームに代わってイスラーム教徒を指導する存在としてアラブ人のシーア派イスラーム法学者であるウラマーが招かれ、シーア派の学校も多数作られるようになった。このようなサファヴィー朝のシーア派による国づくりは、隣接する有力なスンナ派のオスマン帝国やシャイバニ朝に対抗する意味もあった。
 サファヴィー朝は、16世紀末から17世紀初頭のアッバース1世の頃、全盛期となりその新都イスファハーンは「世界の半分」と言われる繁栄を誇った。しかし、このころからポルトガルなどヨーロッパ人の勢力が西アジアに及び始めた。

(5)18世紀イランの混乱

18世紀にサファヴィー朝が衰退、トルコ人やアフガニスタン人が侵攻。1779年、トルコ系のカージャール朝が成立。しかし南下政策をとるロシア、インド確保をめざすイギリスがそれぞれイランに進出する。イラン人もタバコ=ボイコット運動などで抵抗し、1905年の立憲革命で立憲君主制国家となったた。

 サファヴィー朝が倒れた後、複雑な経過をたどり、トルコ系王朝のカージャール朝が成立することとなる。この間、複雑な政権交替があった。18世紀の混乱からサファヴィー朝までの経緯は次のようにまとめられる。<宮田律『物語イランの歴史』 中公新書 2002 などによる>

アフガン人のイラン支配(1722~29)

 サファヴィー朝アッバース1世没後、シャーは政治を顧みずハーレムにこもり、アル中になる者のあらわれ、宦官が実権を握るようになった。まず、サファヴィー朝のシーア派信仰強制に反発したアフガニスタンのアフガン人ギルザイ族がカンダハールを占領。またヘラートでは同じアフガン人のアブダリ族が反乱を起こした。サファヴィー朝には反乱を鎮圧する力が無く、ギルザイ族のマフムードはアブダリ族の反乱を鎮圧した後、1722年に首都イスファハーンを包囲し、6ヶ月の攻撃の後に占領し約8万人を殺害した。マフムードはイラン王を称してスンナ派政権を樹立した。スンナ派の抑圧を避けるために、シーア派聖職者はオスマン帝国領のナジャフやカルバラー(現在のイラクにシーア派いるのはこのためである)に移った。アフガン人のインド支配は全土には及ばず、サファヴィー朝の後継者タフマースプ2世を擁して抵抗を続けた。1726年、オスマン帝国が介入してイランに侵入し、同じスンナ派であることからアフガン人との間で和議を結びイランを分割支配することとなった。

サファヴィー朝の再興(1729~36)

 そのころタスマースプ2世はトルコ系のカージャール族の支援を受けていた。その中の一部族の中のナーディルが1729年にイスファハーンに進軍してアフガン勢力を追い出しタスマースプ2世を即位させ、サファヴィー朝を再興させた。しかし実権はアフガン人を撃退し、アゼルバイジャンなどでオスマン帝国軍を破ったナーディルが握った。

アフシャール朝(1736~96)とザンド朝(1750~94)

  ナーディルは1736年にサファヴィー朝のシャーを退位させ、ナーディル=シャーを名乗ってアフシャール朝を開いた。アフシャール朝では国教をスンナ派に転換させ、シーア派ウラマー追放した。しかしその治世は戦乱で国土が荒廃し、農民にも重税が課せられたので反発を受け、1747年にナーディルも殺害され戦乱の時代となる。イランのスンナ派化も失敗し、民衆のシーア派信仰はそのまま続いた。その結果、アフガニスタンにはアフガン人がドゥッラーニー朝を自立させ、イランにはザンド朝が成立する。イランのザンド朝は一時、安定した支配を行うが、まもなくトルコ系のカージャール朝に滅ぼされる。

カージャール朝(1779~1925)の成立

 トルコ系カージャール族の族長アーガー=ムハンマドは1779年にカージャール朝を創始。イスファハーンを攻略し、1786年にテヘランを首都とした。カージャール朝の時代にはロシア、イギリスなど西欧諸国の侵出が始まり、とくに南下政策を強めたロシアとの2度にわたるイラン=ロシア戦争によって、カフカス地方のグルジア、アゼルバイジャン、東アルメニアなどを奪われた。また1828年のトルコマンチャーイ条約でロシアに不平等条約を強制された。1848年にはイスラーム教の分派バーブ教徒の反乱、19世紀末にタバコ=ボイコット運動などの民族運動を経て、1905年の立憲革命で立憲国家となった。1907年の英露協商は、ロシアが北部に、イギリスが東南部に利権を認めたものであった。

(6)20世紀前半 パフレヴィー朝

20世紀初め、油田が発見され、イギリスが利権獲得。第一次世界大戦後、1921年にレザー=ハーンのクーデターでパフレヴィー朝が成立。1935年に国号をイランに変更。

石油資源の発見

 18世紀末からイランを支配したトルコ系のカージャール朝はロシアとイギリスの帝国主義諸国の侵略を受け、1907年に両国は英露協商で勢力圏を分割した。1908年にイラン南部のフーゼスタン州で最初の油田が発見され、翌年にはイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社が設立され、その利権を所有した。イランは石油の産出地として注目されるようになり、さらに1913年、イギリス海軍が艦船の燃料を石炭から石油に変えたため、イギリスはイランへの支配を強めた。

パフレヴィー朝

 第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国軍が侵入、ドイツ軍も諜報活動を展開し、イギリスも中立地帯に出兵した。これらの情勢にカージャール朝政府は対応出来ず、無政府状態が続く中、1921年にレザー=ハーンがクーデターを起こして実権を握り、1925年には自らシャー(国王)を称し、パフレヴィー朝を創始した。これはイギリスの意向があったといわれる。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書>

国号をイランに変更

 パフレヴィー朝は、1935年には正式な国号をイランとした。これはゾロアスター教の聖典アヴェスターからのとったことばであった。
 イランは石油の産出地国であったため、列強の関心を強めていた。第二次世界大戦中、パフレヴィー朝イランは首都テヘランを中立地帯として、北方の5州をソ連が、南方の諸州をイギリスが管理するという、南北分割下に置かれた。しかし、独ソ戦の開始によってイギリスとソ連は提携することとなり、連合国はイランを通ってソ連に援助物資を送って、その対独戦争を支援していた。1943年、アメリカのF=ローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの山居党がはじめて顔を合わせたテヘラン会談が、イランで開催されたのはそのような事情があった。

イラン(7) 第二次世界大戦後のイラン

第二次世界大戦後、パフレヴィー朝のモサデグ首相による石油国有化運動が進められたが、1953年にクーデターでモサデグ政権が倒され、パフレヴィー2世による上からの近代化策である白色革命が始まる。

 第二次世界大戦が終わるとイギリス軍は撤退したが、スターリンのソ連は撤退せずに居座って北部イランでの共同の石油開発事業をイランに強要した。それに対してモサデグを中心として民族主義運動が高揚し、石油国有化を求める声が強まり、ソ連も撤退した。その後はイギリスの国際石油資本であるアングロ=イラニアン石油会社(AIOC)がイラン油田の利権を独占した。

モサデグの石油国有化政策

首相に就任したモサデグは1951年に石油国有化を断行し、中東で初めて植民地会社を追放し自国資源を自国が受益することに成功した。しかしモサデグ政権はイギリスによる国際市場でのイラン原油締めだしと内部対立のため、1953年にイラン=クーデターで倒され、パフレヴィー2世が復権し、石油資源も国際資本の合弁会社で管理されることになった。

Episode イランを助けた日本の石油会社 -日章丸事件-

 イランが石油国有化を宣言し、イギリスがイラン原油を世界市場から閉め出そうとしたとき、イランから原油を買い付けようとした日本人がいた。出光興産の出光佐三は、日本独自のエネルギー源確保は戦後日本の経済復興にとって不可欠であると考えた。そこで国際石油資本(メジャー)から閉め出され、格安でも原油の輸出先を探していたイラン国営石油会社と直接交渉し、両者は合意に達し契約を交わした。こうして出光佐三はタンカー日章丸をイランに派遣、1853年5月、当時シンガポールはイギリスが統治していたのでマラッカ海峡は通らず、住んだ海峡を経由して川崎港に帰ってきた。これは独立を回復した直後の日本と、真の独立を目指すイランの両国の心意気を示すものとして賞賛され、その後の日本とイランの有効な関係のきっかけとなった。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書 p.159-164>

シャーによる白色革命

 パフレヴィー朝シャーによる独裁政治を復活させたパフレヴィー2世は極端な親英米政策をとり、「白色革命」という急激な近代化政策を進めた。それは国民生活を犠牲にして、国際石油資本に屈服することを意味していたので、国民の信望を失っていった。

イラン革命とイラン=イスラム共和国

1979年にイラン革命によって成立した十二イマーム派を国教とする宗教国家となった。80年代、隣国イラクとの戦争で疲弊したが、対米強硬路線を続け、核開発を主張している。

イラン革命

 1979年、イスラム教シーア派の指導者ホメイニの指導するイラン革命が起こり、パフレヴィー朝は倒れ、イラン=イスラーム共和国が成立した。
 大統領(初代はバニサドル)を公選する共和制国家であるが、革命指導者ホメイニの「ヴァラーヤテ=ファギーフ(イスラーム法学者による統治)」の思想によって主権は神(アッラー)にあるとされ、実際の国家の最高意志決定は、イスラーム教シーア派の十二イマーム派の聖職者から公選される専門家会議で選出される最高指導者があたる政教一致の国家体制をとった。 → イランのシーア派

第2次石油危機

 イランは当時、サウジアラビアに次ぐ世界2位の産油国であったが、79年1月に国王が亡命すると、その保護のもとにあったメジャーズ(国際石油資本)は資源を残したまま撤退し、革命政権は石油国有化を実現させた。革命政権は資源保護を目的に原油輸出を停止し、OPECも同調して増産に慎重な姿勢を取ったため、世界的な原油不足となり、1973年の第4次中東戦争の時の第1次石油危機に次ぐ、第2次石油危機が起こった。

イラン=イラク戦争

 ホメイニによるイスラーム信仰にもとづく厳しい統制がおこなわれる国家の出現は、西欧諸国大きな衝撃を与えた。しかし、この国家は、隣国イラクのサダム=フセインが革命に乗じて石油資源を狙って侵攻してくきたた1980年から88年に渡る長期間のイラン=イラク戦争に突入することになり、苦難が続くことになる。

アメリカとの関係悪化

 革命直後の1979年、イランが亡命したパフレヴィー前国王の身柄引き渡しを要求したのに対してアメリカが拒否したため、イランの革命勢力はテヘランのアメリカ大使館を襲撃し大使以下を人質に立てこもるというアメリカ大使館人質事件が起こった。人質解放交渉は難航し、アメリカのカーター大統領はヘリコプター特殊部隊による救出作戦を決行したが失敗した。

ホメイニ後のイラン

 1989年にホメイニが死去してからは最高指導者はハメネイとなった。大統領は1997年の選挙で解放路線を掲げたハタミ(またはハーターミー)が当選し、イラン革命当時のような日常生活での宗教的な締め付けはかなり緩くなったと言われるが、依然としてイスラーム原理主義的な宗教理念を基本とした政治が行われている。

核開発とアメリカの経済封鎖

 2002年にはアメリカのブッシュ(G.W.)大統領はイランの核開発をめぐってにより「悪の枢軸」の一つと名指しし、イランとアメリカとの関係は極端に悪化した。2005年の大統領選挙では対米強硬論者、反西洋文明を訴えたアフマディネジャドが、穏健派ラフサンジャニを破って当選した。アフマディネジャドはアメリカに対する警戒を強め、核開発をアメリカとに対する平等な権利であると主張して推進しようとしている。ただし、イスラエルと異なり、核拡散防止条約(NPT)に留まって国際原子力機関(IAEA)の査察を受けいれることも表明しており、イラン核開発問題は解決に向かう機運をみせている。
 その背景にはアメリカが主導する経済封鎖がイラン経済に打撃をあたえ、国民の中に対米強硬路線の転換、統制の緩和を支持する声が強まり、2013年8月に穏健派の新大統領ロウハニ師(聖職者)が当選した。しかし、国家の最高指導者は依然として反米姿勢が強いと言われるハメネイ師であり、対米関係が改善されるかどうかはなお不明である。
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ノートの参照
1章1節 カ.オリエントの統一
6章1節 ア.トルコ系民族の進出とソグド人
4章1節 ウ.イスラーム帝国の形成
第13章1節 エ.イラン・アフガニスタンの動向
第15章3節 カ.トルコ革命とイスラーム諸国の動向
書籍案内

宮田律
『物語イランの歴史』
2002 中公新書

M=ボイス/山本由美子訳
『ゾロアスター教』
2010 講談社学術文庫