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カンボジア保護国化

1863年、フランス=カンボジア保護条約を締結、フランスの保護国となる。

 クメール人の国家カンボジアは6世紀以降、真臘と言われており、9世紀から15世紀にはアンコール朝が繁栄し、インドシナ半島中部のメコン中流から下流を支配していた。しかし西のタイ(シャム)と東のベトナムに挟まれ、次第に衰退してきた。

フランスの進出

 19世紀にはイギリスの支援を受けたタイが宗主国としてカンボジアに侵出し、王位継承に介入していた。フランスのナポレオン3世1862年サイゴン条約でベトナムのコーチシナ東部を割譲させ、さらにカンボジアへの進出を狙って国王ノロドムに接触、1863年フランス=カンボジア保護条約を締結して保護国とした。タイ(とその背後のイギリス)はなおも介入しようとしたが、1865年、フランスはタイにカンボジアの一部の領有権を割譲した上で、カンボジアを保護国とすることを認めさせた。
 さらに1884年、フランスはノロドム国王に迫って、フランスが司法・財政(租税、関税の収益を含め)を管理することを認めさせ、保護国化を完成させた。1887年にはフランス領インドシナ連邦が成立し、カンボジアもそれを構成する一邦として、ハノイのフランス総督の統治を受けることとなる。
 タイの宗主権が残されたカンボジア北西部バッタンバン、シュムリアップなどのは、1907年にフランスがタイとの不平等条約のなかの治外法権撤廃に応じる代償としてフランスに割譲され、これによってカンボジアの全域がフランスの保護領となった。 → カンボジア
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