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フランス領インドシナ連邦

インドシナのベトナム・カンボジア・ラオスにまたがるフランスの植民地支配地域をいう。

フランス領インドシナ」(仏印)ともいう。直轄領コーチシナ(南部ベトナム)、半直轄半保護国のトンキン(北部ベトナム)、保護国のアンナン(中部ベトナム)、カンボジアラオスから構成され、1887年に「フランス領インドシナ連邦」となった。
※直轄領(ベトナム南部のコーチシナ)と保護国(アンナン、カンボジア、ラオス)から構成されていることに注意する。

フランス領インドシナ連邦の形成

 ベトナム阮朝に対して、フランスのナポレオン3世は、1858年に宣教師殺害事件を口実にインドシナ出兵(フランス=ベトナム戦争)を開始、ベトナム南部を占領して、1862年のサイゴン条約でのコーチシナ東部三省を割譲させた。ここからインドシナのフランス植民地の形成が始まり、翌63年にはカンボジアを保護国化した。さらに、67年にコーチシナ西部三省を占領した。
 ナポレオン3世の第二帝政が倒れ、フランスでは第三共和政が成立したが、そのもとでも植民地政策は基本的には変化せず、ベトナム侵略はさらに拡大した。1880年代に入るとフランスはベトナム北部に侵出し、ハノイを攻撃、1883~84年に2次にわたるユエ条約でアンナン、トンキンの保護国化を阮朝に認めさせた。これに対して、阮朝の宗主国である清が抗議し、1884年に清仏戦争となったが、フランスは清軍を破り、ベトナム保護国化を承認させた。こうしてフランスはベトナム・カンボジアを植民地化して、1887年にフランス領インドシナ連邦とし、総督を置いて統治することとなった。さらに1899年のラオスを保護国化したことによって完成した。

フランスの統治

 フランスは総督府をハノイに置き、各邦にそれぞれの行政機関を置いた。保護国では各国王の宮廷があり、ベトナム人官吏が統治に当たったので、二重構造となった。フランス領インドシナ連邦は、フランス帝国主義にとって重要な植民地となり、19世紀末から統治機構が整備されていったが、同時にベトナム人の独立運動も知識人を中心に始まる。

フランス領インドシナ連邦の解体

 日本ではフランス領インドシナ連邦を「仏印」と呼び、フランスがドイツが降伏したことを受けて1940年9月に日本軍を北部仏印進駐にさせ、ついで41年7月に南部仏印に進駐した。これはアメリカ・イギリスを強く刺激し、太平洋戦争開戦への導因となった。

フランス統治の終わり

 なお日本はこの地を統治するに当たり、当初はフランスとの共同統治としたが大戦末期の45年3月、フランスを排除したため、フランス領インドシナ連邦は実質的に解体した。日本の敗北後の同年9月、ホー=チ=ミンの指導するベトナム民主共和国が独立すると、46年からフランスは植民地支配の復権をねらい、それを阻止しようとするベトナムとの第一次インドシナ戦争となる。その結果、フランス軍はディエンビエンフーの戦いで大敗北を喫し、1954年ジュネーヴ休戦協定に応じ、フランスのベトナム支配は終わりを告げた。 → ベトナムの独立
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ノートの参照
第13章2節 ウ.東南アジアの植民地化