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カンボジア/クメール王国

インドシナ半島中央部のメコン中流域にある国家。クメール人が建国し、12世紀のアンコール朝の時が全盛期で、メコンデルタ、ラオス、バンコク周辺まで支配を及ぼした。その後、ベトナムとタイに圧迫されて衰退。18世紀にフランスの保護国と成り、第二次世界大戦後、シハヌークのもとカンボジア王国として独立。ベトナム戦争に巻き込まれアメリカの侵攻を受ける。1970年からは深刻な内乱に突入、一時ポル=ポト派が権力を握り、独自の共産国家建設を強行、多くの反対派が虐殺された。1979年、ポル=ポト政権はベトナムが介入して倒されたが、内戦はさらに続き、1991年国連の仲介で和平が実現、93年からはカンボジア王国が復活、現在、内戦による国土の荒廃からの回復に努めている。

 (1)真臘・アンコール朝  (2)フランス保護国化  (3)独立と内戦  (4)カンボジア王国

(1) 真臘・アンコール朝

クメール人がメコン川中、下流に建設した国家。アンコール朝の時の12世紀が全盛期。

 東南アジアの大陸部(半島部)の中心部、現在のカンボジアの一帯。この地域の民族であるクメール人は、ベトナム南部の扶南がメコン下流の海岸部で活躍したのに対し、メコン川の中流域の山岳部で活動していた農耕民であった。クメール人は6世紀以降有力となり、7世紀に扶南を滅ぼし、カンボジア王国(クメール王国ともいう)を建設した。中国ではこの王国を「真臘」と言っている。

中国名の真臘

真臘の語源についてはわかっていない。唐以降の中国各王朝と交渉を持ったカンボジア王国を真臘といい、8世紀頃に陸真臘と水真臘に分裂、ついでアンコール朝が起こるがアンコール朝も中国では真臘といわれた。13世紀末にカンボジアを訪れた元の周達観が著した書物も『真臘風土記』という。

インド化

この真臘も「インド化」した文明を持ち、ヒンドゥー教とシヴァ神信仰を受け入れた。またインドの文字を取り入れたクメール文字を用いていた。8世紀中頃、北の陸真臘と南の水真臘に分裂したが、9世紀以降はアンコール朝のもとで全盛期を迎えた。

カンボジアの全盛期 アンコール朝

 アンコール朝の12世紀に、壮大な寺院建築であるアンコール=ワットが建設されと、都城であるアンコール=トムが建設され、東南アジア文明の代表的な文化遺産となっている。
 アンコール朝時代のカンボジア(クメール王国)は、その歴史上最盛期を迎えた。領土は現在のカンボジアの周辺、南ベトナム(メコン=デルタ)、ラオスの大部分、タイの東部を含み、インドシナ半島最大最強の国家となった。現在のベトナム最大の都市ホー=チ=ミン市(サイゴン)、ラオスのビエンチャン、タイのバンコクもクメール王国に含まれていた。
 しかし、13世紀になるとアンコール朝王室の内紛と、西に起こったタイに圧迫されたことで、次第に衰退していった。

ベトナムによる侵略

 10世紀にトンキン湾地方に建国されたベトナムは、インドシナ半島の東海岸沿いに勢力を南下させ、黎朝の17世紀にはフエを本拠とした地方政権阮氏がカンボジア領のメコンデルタ(コーチシナ)に進出し、ベトナム人の入植を進め、広南(クァンナム)国と称した。18世紀末までにベトナムは統一を完成し、この地もベトナムに併合され、この地方の最大の都市サイゴン(現在のホー=チ=ミン市)ベトナム領となった。
 カンボジアでは現在でもメコンデルタは自分たちの領土であったものをベトナムに奪われたという意識が強く、それが現代の両国関係が悪化した時に持ち上がってくる。

日本町

 16世紀~17世紀の初め、朱印船貿易が盛んだった時期に東南アジア各地に生まれた日本町は、カンボジアのプノンペンやピニャールにもみられた。また、アンコール=ワットには1632年に森本右近大夫という人が参詣したことが、その回廊への落書によって判っている。

(2) カンボジアのフランス保護国化

1863年、カンボジアはフランスの保護国となり、87年からはフランス領インドシナ連邦の一つとなった。

 カンボジアは17世紀以来、西のタイと東のベトナムからの圧力を受け、事実上、その二国に隷属する状態であった。特に19世紀にはタイがイギリスの後押しでカンボジアへの支配力を強めてきた。ノロドム王は、タイとイギリスの進出からカンボジアを守るため、ベトナムに進出していたナポレオン3世のフランスと結ぶこととした。それは、フランスにカンボジア進出の口実を与え、1863年にフランス=カンボジア保護条約を締結してカンボジアを保護国化した。タイおよびイギリスに対しては、65年にカンボジアの一部の領有権をタイに割譲した上で、カンボジア保護国化を認めさせた。

フランス領インドシナ連邦

   こうしてカンボジアは国家主権を制限され、フランスの保護国となった。さらに1884年、フランスはノロドム国王に迫って、フランスが司法・財政(租税、関税の収益を含め)を管理することを認めさせ、保護国化を完成させた。1887年にはフランス領インドシナ連邦が成立し、カンボジアもそれを構成する一邦として、ハノイのフランス総督の統治を受けることとなった。
 フランス植民地当局はカンボジア人を「怠け者」とみなし、より「勤勉」なベトナム人を重用した。一方、農民には重税がかけられ、ますます勤労意欲を失い、借金地獄に陥る農民も多かった。

(3) カンボジアの独立と内戦

1953年、シハヌークがカンボジア王国の独立を宣言。しかし、70年代に内戦となり、国土が荒廃した。

第二次世界大戦とインドシナ情勢

 日本軍は1937年の盧溝橋事件から日中戦争に突入したが、蒋介石・国民党政府は重慶に逃れ、ベトナムを経由した援蔣ルートでの連合軍からの軍事物資を得て抵抗を続けたため、戦争は長期化した。日本は援蒋ルートの遮断を狙っていたところ、39年、第二次世界大戦が始まり、40年6月、ナチス=ドイツに対してフランスが降伏した。それを受けて日本は40年9月に北部仏印に進駐、一方タイは20世紀の初めフランスに奪われたカンボジアとラオスの領土回復を要求して、年末にはカンボジア西部に侵攻した。日本はフランスとタイの調停に乗り出し、41年5月に平和条約を締結、カンボジアは領土の4分の1をタイに譲渡した。

日本軍のカンボジア進出

次いで41年7月、日本軍は南部仏印に進駐、ベトナム南部からカンボジアに部隊を展開、アンコール=ワット付近に飛行場を建設して、東南アジア進出の前線基地とした。同年12月、太平洋戦争開戦と同時に、日本軍はカンボジアなどからタイに侵攻した。
 タイへの領土割譲と日本軍の進駐は、カンボジア人の民族独立運動に火をつけ、フランスからの独立要求が強まると、フランスは41年にわずか19歳目前のシハヌークを国王に据え、操ろうとした。42年7月にプノンペンで初めての反仏デモ(日本軍の了解のもとで行われた)が起こったが、フランス治安部隊によって鎮圧された。

カンボジア王国の独立宣言

   日本軍は太平洋戦争末期の1945年3月に国王シハヌークに独立を宣言させた。しかし、8月の日本の敗戦とともにフランスが戻ってきて植民地支配が再開された。「自由クメール」による反フランス闘争が起こり、フランスがベトナムでの戦い(インドシナ戦争)で苦戦する中、1953年11月9日にシハヌーク国王の名で独立を宣言した。1954年のインドシナ戦争後のジュネーヴ会議で、カンボジアの独立が国際的に承認された。シハヌークは55年に王位は父に譲り、より自由な皇太子の立場に立ち「シハヌーク殿下」と言われるようになった。実質的には国家元首として、自ら仏教社会主義共同体(サンクム)という独自の政党を組織した。

ベトナム戦争とカンボジア

   以後、シハヌークのもとで、しばらく安定した時代が続いたが、隣接するベトナムで南北の対立が激化し、1965年にベトナム戦争が始まると、シハヌークは北ベトナム寄りの反米姿勢をとり、北の支援ルートや南ベトナム解放戦線(ベトコン)の基地としてカンボジア領内を使うことを容認した。

ロン=ノル政権と米軍の侵攻

 1970年、外遊中のシハヌークは親米右派のロン=ノル将軍のクーデタで退けられ、カンボジアに戻れなくなり北京で亡命生活を強いられた。アメリカはただちにカンボジアに侵攻してベトコンの拠点を攻撃、カンボジアもベトナム戦争の戦場となるに及んだ。

カンボジア内戦

 1970年、ロン=ノル政権とそれを支えるアメリカ軍に対して、反政府解放勢力が激しい戦いに立ち上がり、カンボジア内戦に突入した。その間、首都プノンペンには次のような政権が交代したが、推移をまとめると次のようになる。
  • 1970~1975年 ロン=ノル政権:国名は「クメール共和国」 政体は共和国 特徴は親米右派政権。シハヌークは北京に亡命。共産勢力はポル=ポト派を形成、ジャングルで解放区を建設。アメリカは激しい空爆を行うが、抵抗を続ける。
  • 1975~1979年 ポル=ポト政権:国名は民主カンプチア 農業を基本とした独自の共産制社会をめざす、親中国。都市民の強制的な農村移住、通貨の廃止、学校教育や科学技術の軽視など、極端な政策を強制し、反対する人々を強制収容所に送り、大量処刑したことなどが後に判明した。1979年1月、ベトナム軍のカンボジア侵攻、プノンペンからポル=ポト政権を追い出し、ベトナム軍に支援されたヘン=サムリン政権が成立。
  • 1979~1991年 ヘン=サムリン政権:国名はカンボジア人民共和国、親ソ連・ベトナムの社会主義政権。反対勢力のシアヌーク派(王党派)、ポル=ポト派(共産勢力)、ソン=サン派(共和派)は三派連立政権をつくり、内戦が続く。
    1989年 ベトナム軍は撤退し、国号を「カンボジア人民共和国」から「カンボジア国」に変更。社会主義路線から転換する。
  • 1991~1993年 カンボジア和平協定による国連監視のもとでの最高国民評議会(SNC)による統治。93年の総選挙でシハヌーク支持派が第一党となり、憲法を改正し立憲君主政の「カンボジア王国」となり、シハヌークが国王に復位した。

カンボジア和平協定の成立

 1989年、カンボジアからベトナム軍が撤退。ヘン=サムリン政権は国号を「カンボジア国」に変更すると、それを機にポル=ポト派の軍事攻勢が再燃したが、1991年のソ連の崩壊を受けて、冷戦が終結するという国際情勢の大きな変化の中、パリで続けられていたカンボジア和平に関する国際会議はようやく同年10月23日、和平協定の合意に達し、参加19ヵ国によって「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」が調印された。それによって
・国連安全保障理事会は、文民と軍人による国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)を設置する。
・カンボジア最高国民評議会(SNC)を移行期間中のカンボジアを代表する唯一の合法機関と見なす。
ことが定められた。

(4) カンボジア王国

1993年、国連監視の下で選挙が行われ、シハヌークが政権に復帰。憲法を改正して立憲君主国として自ら王位に服した。内戦は一応収束し、国土の復興、政治の安定などが進められている。

UNTACのもとで

 1970年からのカンボジア内戦は、1991年のパリ和平会談の結果、カンボジア和平協定が成立してようやく終結した。その和平協定により、国連の国連平和維持活動(PKO)の一環として、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアの復興にあたることになった。

カンボジア王国の成立

 1993年、暫定統治機構管理下での総選挙が行われ、ポル=ポト派はボイコットしたが大きな混乱なくシハヌークの率いるフンシンペック党が第一党となり、5月に暫定政府が成立、9月に新憲法が制定されて立憲君主国としてカンボジア王国が復活した。国王にはシハヌークが復位した。
カンボジア国旗  カンボジアの国旗は、かつてのポル=ポト政権下の「民主カンプチア」では共産主義を表す赤地の中に黄色でアンコール=ワットが描かれていた。ヘン=サムリン政権のもとで「カンボジア人民共和国」が1989年に「カンボジア国」に改められた時には、上半分が赤、下半分が青、中央に黄色いアンコール=ワット、と変更された。さらに、1993年の「カンボジア王国」となって、現在の上下を青地、中を赤地にして、中央にアンコール=ワットを白く浮かび上がらせる図柄になった。

フン=セン政権の成立

 憲法の規定に基づいて実施された選挙の結果、ラナリット第一首相(フンシンペック党)とフン=セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人による連立政権が成立した。しかし、王党派の系統を引くラナリットと、旧ヘン=サムリン政権の首相だったフン=センの主導権争うが間もなく表面化した。  1997年には両派による内戦が起こったが、フン=センが権力を獲得し、それ以後は一応、安定した政権を維持した。フン=セン政権は1999年にはASEAN加盟、さらに2004年にはWTOに加盟して、資本主義経済の導入に努め、東南アジア諸国の一角を占めている。なお2004年にはシアヌーク国王が引退し、シハモニ国王が即位した。また、この間、ポル=ポトもジャングルの中で死去し、他の指導者も相次いで政権側に投降、ポル=ポト派も消滅し、現在はポル=ポト政権下の大量虐殺の責任についての裁判が断続的に行われている。

参考 カンボジア・カンプチア・クメール

(引用)現地の人は、自らの国を「カンプチア」と呼び、そう発音する。「カンプー」という神様の「チア」=子孫というほどの意味だそうである。「カンプチア」を植民市支配したフランス人は、この国の名前を「カンボージュ」と発音して表記し、英語国民は、このフランス語なまりの「カンボージュ」から「カンボジア」という英語にしたようだ。基本的には、カンボジアもカンプチアも同じである。
 クメールは、国全体を表わすカンボジア=カンプチアより、多少狭い民族的な概念で、多数民族であるクメール民族とその言語・文化に関連して使われる。クメール語とか、クメール文化とかいうようにである。広い意味でのカンボジア国民=カンプチア国民は、多数民族であるクメール人だけではなく、中国系、ヴェトナム系、タイ系、チャム・イスラム系、山岳民族などの少数民族をふくめた全体の人々を指す。
 なお各時代の正式国名は、・・・次のようになっている。
 シハヌーク時代「カンボジア王国」Kingdom of Cambodia
 ロン・ノル時代「クメール共和国」Khmer Republic
 ポル・ポト時代「民主カンプチア」Democratic Kampuchea
 ヘン・サムリン時代「カンプチア人民共和国」People's Republic of Kampuchea
 1989年から「カンボジア国」State of Cambodia
ということで、英語にした時は、カンプチアと称した時代は、社会主義的な体制を感じさせるという。またロン・ノル時代が、狭い意味での「クメール民族主義」であることは、国名の選び方からもうかがえる。<熊岡路矢『カンボジア最前線』1993 岩波新書 p.46-45>
 その後、1993年に立憲君主政となり、シハヌークが国王に返り咲いた。従って現在の国号は「カンボジア王国」である。シハヌーク国王は2004年に退位、ノロドム=シハムニ国王が即位した。