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中国の銀の流出

イギリスによるアヘン密貿易によって中国の銀が海外に流出し、清朝の財政を悪化させた。

 明清時代を通じ、互市貿易の形式で行われた海外貿易により、中国に多くのが流入した。ヨーロッパ産の銀とならんで16世紀末には日本銀後期倭寇の活動などによって大量にもたらされた。続いて18世紀ごろからはメキシコ銀がフィリピンなどを通して流入し、広く用いられるようになった。
 清朝は、台湾に鄭氏政権がある間は海禁(貿易制限)を強化していたが、康煕帝が鄭氏台湾を征服し、さらに三藩の乱を鎮定して中国統一が完成した後は、海禁の緩和に転じた。1684年遷界令を解除し、翌1685年には、沿岸の上海、寧波、漳州(厦門)、広州の四港に海関を設けて海外貿易を管理するようになった。このような海外貿易の緩和により銀の流入がさらに続いたことによって、中国では銀が秤量貨幣として広く流通するようになり、税制も1716年以降は地丁銀制(人頭税を無くし地税に組み入れて銀納させる)に改められた。

銀の流入から流出へ

 しかし、18世紀後半になるとイギリスは、それまでの茶の輸入のため銀を支払い、そのため銀が流出という輸入超過を解消するため、綿織物の売り込みを図り、そのために自由貿易の拡大を求め、1793年マカートニー1816年アマーストと重ねて使節を派遣したが、清朝は自由貿易を拒否し続けた。1834年にはネイピアは広州を砲撃するなどの実力を行使したが、慎重の姿勢は変わらなかった。
アヘン密輸・三角貿易 そのような中でイギリスの商人はインド産のアヘンを盛んに密輸するようになった。そこに、イギリス―インド―中国を結ぶ三角貿易が成立し、そのため、中国にはアヘンが流入、逆に銀が流出するという輸入超過に陥った。1827年を境に逆転して、銀が流出するようになった結果、中国では銀の流通量が減少し、銀が高騰して清朝の財政を圧迫し、同時に経済を不安定にした。
(引用)1838年に中国がアヘン輸入の対価として支払った約2000万スペインドルは中国の通貨では1400万から1500万両に当たるが、当時の清朝の一年の歳入が4000万両前後であった。また茶葉の輸出によって得られた銀が約2000万スペインドルであったので、それがすっかり逆流出することになり、茶葉の輸出が減少すれば、銀は一方的に流出することになる。それは清朝財政を圧迫し、増税と物価高が民衆を苦しめることになる。<陳舜臣『実録アヘン戦争』中公新書 p.45-47 中公文庫にもあり>

銀の高騰と民衆

 清では銀本位制が採られ、税はで納められたが、庶民が日常的に使用していたのは銅銭であった。そこで人々は銅銭を銀に換えて税を払う必要があった。その交換レートは銀1両が銭1000文であった。ところが、19世紀にアヘン貿易の代価として銀が海外へ大量に流出すると、「銀貴銭賎」すなわち銀の値段が高騰して1両あたり2000文以上になった。つまり事実上の増税となった。
 また、アヘン戦争での戦費調達や賠償金支払いのために、清朝は豊かな東南の沿岸部から規定の数倍にのぼる税を取り立てようとした。その負担は身内に官僚や科挙合格者のいない庶民に集中した。アヘン戦争の無惨な敗北によって清朝の権威が揺らぐと、不公平の是正を求める人々が納税を拒否したり、私腹を肥やしていた役人を襲撃する抗糧暴動が多発した。江南地方では地主に小作料を納入しない抗租運動が広がった。これらの人々の不満を吸収したのが太平天国であった。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』中国の歴史10 講談社 p.33 など>
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書籍案内

陳舜臣
『実録アヘン戦争』
中公文庫