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海禁/海禁政策

中国の明・清王朝での、民間人の海上交易を禁止する政策。明の洪武帝は海外渡航の禁止を含む厳しい海禁令を出し、一方で恩恵的な朝貢貿易を認めた。清朝は鄭氏台湾などの反清活動を抑えるため遷界令を出して海禁を強化したが、17世紀後半からは海禁を解除した。海禁は海外渡航の禁止を含む厳しいものと、貿易制限にとどまるゆるやかな場合があり、時期的にも実施と解除が繰り返されるので、一律ではないことに注意する。

 「海禁」とは、船の大きさの制限や、一部商品の取り扱い禁止などのゆるやかな場合(広い意味の海禁)から、全面的な民間の海上貿易の禁止・海外渡航の禁止という厳しい場合(狭い意味の海禁)までがあり、時期によって異なっている。また明・清の海禁は、貿易の政府管理とともに、海上の治安維持を目的としていることが多い。日本の江戸幕府も鎖国も一種の海禁政策である。
海禁と朝貢は表裏の関係 また「海禁」によって民間貿易が禁止・制限された場合でも、王朝が恩恵として受け入れる朝貢貿易は明・清いずれでも行われており、朝貢貿易と海禁は対外政策の二本の柱であり、表と裏の関係であった。また海禁令を何度も出したということは、現実には民間の私貿易・密貿易が常に行われていたためであり、そこに倭寇の活動の意味もあった。また清朝では、海関を置いて貿易を管理する海外貿易(互市貿易ともいう)も行われていることに注意する。日本の鎖国も、完全に国を閉ざしたのではなく、海外貿易・外交関係を幕府が独占・管理する一種の海禁政策である。
 明朝の海禁策は清朝でも継承され、特に清初の鄭氏台湾の反清活動が活発だった時期には遷界令が敷かれた。しかし安定した支配を実現した17世紀後半からは海禁は解除され、海関における管理の下での海外貿易(互市貿易)が盛んになり、おりから盛んになったポルトガル商人などを通じて生糸など中国特産品がヨーロッパにもたらされ、銀が大量に中国にもたらされることとなった。このように、海禁とはあくまで「民間の海上貿易の禁止」であり、外に勘合貿易や互市貿易の形態での貿易が行われ、また時期によって海禁が弛められたり、解除されていることに留意する必要がある。

明の海禁とその推移

洪武帝の海禁令 1368年に明朝を建てた洪武帝(朱元璋)は、外国貿易によって沿岸地方の都市が発展し、皇帝の統制に服さなくなることを恐れ、倭寇(いわゆる前期倭寇)を防止することを口実に、1371年に「海禁令」を出し、海外との交易、大船の建造などを禁止した。
 この明の海禁政策によって、宋・元時代のジャンク船の活躍した海外貿易は明になると急激に衰退した。しかし、福建省や広東省の海岸の人びとは海上交易の抛棄は死活問題であったので、密貿易というかたちで私貿易は続けられ、またその地の中国人の多くが東南アジアに移住し、いわゆる華僑の始まりとなっていった。
永楽帝の朝貢貿易 明朝の海禁は皇帝が外交・交易関係を独占し、国際関係でも漢や唐の冊封体制を復活させて皇帝が世界の中心にあることを示めそうとするものであった。そのため、貿易は、夷狄である外国が中国皇帝の徳を慕って朝貢してくるもののみを受け入れ、恩恵として下賜品をあたえるという、朝貢貿易の形式においてのみ認められた。
 永楽帝の時代になると、朝貢貿易の積極的な拡大が図られ、鄭和の南海派遣(1405~30年)が行われ、インド洋方面に派遣することまで行われた。日本との関係では室町幕府の将軍足利義満を日本国王に封じ、勘合符を持つ公認の船だけとの交易を認める勘合貿易の形式がとられた。これによって倭寇(前期)の活動は沈静化した。しかし、永楽帝の対外策はあくまで朝貢国の拡大をめざしたもので、自由な商人の活動が行われたわけではなく「海禁」は続いており、永楽帝の死後はさらに強化されることとなる。
明の海禁と後期倭寇
(引用)宋や元の時代には民間の海上貿易がさかんにおこなわれていたが、社会経済にたいし強い統制・管理政策をとろうとした明朝政府は、周辺諸国とのあいだの朝貢貿易を推進する一方で、民間の海上貿易に対しては「寸板も下海を許さず(一寸の長さの板も海にでることを許さない)」という厳しい禁止政策をとっていたのである。日本から中国への銀の奔流は、いわば明の築いた「海禁」というダムによって堰き止められていたわけで、このダムを突きくずそうとする勢いのなかで、16世紀の「倭寇」が成長してくる。<岸本美緒『東アジアの「近世」』世界史リブレット13 1998 山川出版社 p.11>
北虜南倭の時代 1550年代になると、明朝はアルタン=ハンの率いるモンゴルの侵攻に悩まされ、対モンゴル戦争のための長城の修復(事実上の新築)など北辺防備のための軍費として銀が入用となった。銀は民間から徴税されたので、民間でも銀の需要が急速に高まった。そのようなときに日本では銀の産出が急増していた。海禁を破って日本の銀を中国に密貿易するために活動したのが後期倭寇であった。これをあわせて北虜南倭といったが、北虜と南倭はこのように結びついていた。
ポルトガル商人と海禁策の停止 1557年にはマカオでのポルトガル商人の居住が認められ、事実上の貿易が始まった。それとともに倭寇の活動はポルトガル商人(南蛮商人)と競争することとなって次第に衰えていった。1567年に始まった張居正の改革で、明朝政府は海禁策をやめ、貿易再開と中国人の海外渡航を認め、さらにアルタン=ハンとも和議を結んでモンゴルとの交易も開始された。明は張居正の改革で一時持ち直したが、16世紀末には豊臣秀吉の侵略に苦しむ朝鮮に援軍を送ったことから財政は再び困窮し、17世紀にはいると満州に起こった女真の勢いに押され明から清への交代期となる。

清の海禁とその推移

 明朝では主として倭寇対策として海禁政策がとられていたが、次の清朝ではまず、鄭成功の支配する鄭氏台湾を抑えるために1661年遷界令(住民を海岸部から内陸に移住させる命令)が出され、厳しい海禁策がとられた。
康煕帝、海禁を解除 康煕帝が鄭氏台湾を征服し、三藩の乱を鎮定して清朝の中国統一が完成した後、1684年遷界令は解除され、海禁はゆるめられた。沿岸には上海、寧波、漳州(厦門)、広州の四ヶ所に海関が設けられ、海外貿易が行われた。その結果、海上貿易は盛んになり、中国からは生糸陶磁器などが輸出され、ヨーロッパ商人からがさらに流入するようになった。
中国と日本の貿易 また明、清の海禁政策と同じように、鎖国政策を採っていた日本の江戸幕府は、オランダと並んで中国との取引は認めていた。中国との長崎貿易は鄭成功によっても行われていたが、遷界令によって一時抑えられ、それが解除されたために再び活発となった。長崎では中国産の生糸(白糸)は珍重され、オランダ商人よりも取引額多くなった。そのため銀の流出が問題となり、幕府は1688年に長崎に唐人屋敷を設け、その統制を強化した。
ガレオン貿易 スペインはフィリピンのマニラに拠点を置き、中国商人から絹織物や陶磁器を買い、太平洋の対岸のメキシコに運ぶガレオン貿易を行ったが、それによって大量のメキシコ銀が中国に流れ込むようになった。
 これらの活発な貿易によって18世紀には中国の経済は著しく発展し、中国の人口の増加(この100年間に1億数千万から約3億に増えた)をもたらしたが、特に土地の不足した福建・広東の人びとが、南洋華僑といわれ、盛んに海外に渡航するようになった。

乾隆帝の海禁

 乾隆帝時代になると互市貿易を管理するため、1757年に貿易港(海関)を広州一港に限定し、貿易は公行という特許商人だけに認め、自由な貿易や海外渡航は禁止され実質的な鎖国体制に入った。しかし、人びとは海禁を犯して海外に進出していった。また、18世紀後半になるとイギリスなどは制限貿易に代わる自由貿易の拡充を求めて、盛んに使節を派遣するようになった。1792年にはマカートニー使節が派遣されたが、乾隆帝はそれを拒否した。

海禁の終わり。中国の開国

 1840年のアヘン戦争で清朝に勝利したイギリスは、42年の南京条約によって香港の割譲と共に、公行を廃止させ、ここに清朝の海禁(鎖国政策)は終わりを告げた。

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岸本美緒
『東アジアの「近世」』
世界史リブレット13
1998 山川出版社