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常勝軍

アメリカ人のウォードが組織した外国人傭兵部隊を母体に、中国人兵士を近代兵器で武装した部隊。

太平天国の乱の時、1860年のアメリカ人ウォードが組織した外国人傭兵部隊に始まり、後に中国人兵士を徴募して西洋式軍隊都市、彼の戦病死後はイギリスの軍人ゴードンがその指揮を継続して太平天国軍との戦闘を有利に進め、勝利に導いた。

ウォードによる編成

 ウォードが組織したのは、百余名からなる外国人傭兵部隊で、洋式銃と大砲で武装していた。翌61年春、中国人4500人を徴募し、外国人を指揮官として中国人を兵士とする洋式軍隊に拡充し、62年2月に常勝軍と改称した。ウォードの傭兵部隊は、忠王李秀成に率いられた太平天国軍が上海に迫ると、その新軍を阻止するために清朝正規兵と共同して出動して戦った。太平天国軍は優勢であったが、天王洪秀全が天京(南京)の守備が手薄になることを恐れて李秀成軍を呼び戻したために、上海総攻撃は回避された。この間、62年5月にウォードが戦病死し、アメリカ人のバージェビンが常勝軍を引き継いだが、給料の遅配に腹を立て、清の金庫から5万元を奪って逃走し、太平軍に投じてしまうという一幕もあった。

ゴードンの指揮

 1862年5月のウォードの戦病死後、イギリスの在華陸軍司令スティーブリーは李鴻章と協議して、常勝軍についての諸規定を定め、ついで現役将校ゴードンを常勝軍の最高司令官にすることで合意した。ゴードンは代々の世襲された典型的なイギリス軍人で、厳しい訓練を施し、強力な実戦部隊に仕上げた。他にも寧波では常勝軍に倣って常安軍・定勝軍が編成され、フランスも寧波で常捷軍を編成した。

太平天国の乱の終結

清朝政府は、常勝軍に依存することが大きく、また郷勇の力で1863年から64年にかけて、江浙各地で太平天国軍を破り、のこるは天京だけとなった。64年5月、ゴードンは、大勢はすでに決したとして常勝軍を解散させた。翌月、天京は陥落し、ようやく太平天国の争乱は終わりを告げた。なおゴードンはクリミア戦争、アロー戦争にも従軍。後にアフリカに渡りスーダンでマフディー教徒の乱の鎮圧にあたり1885年に戦死する。
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ノートの参照
第13章3節 ウ.国内動乱と近代化の始動