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マフディーの反乱

19世紀末、アフリカのスーダンで起こったイスラーム教徒による反英闘争。

 マフディーとはアラビア語で「導かれた者」、または「救世主」を意味する。1881年、スーダンムハンマド=アフマドは、自らマフディーを名乗り、イスラーム教徒を結集して反エジプト・反イギリスの闘争に立ち上がった。これをマフディーの反乱ともいい、マフディー教徒は山岳部を拠点に独自のイスラーム国家を建設した。
ゴードン将軍の戦死  スーダンはエジプトの支配下にあったが、そのエジプトでも反英闘争であるウラービーの反乱が起こったため、スーダンの反乱鎮圧が困難であり、スーダンの中心都市ハルトゥームは反乱軍に包囲され、苦境に陥った。
 イギリスは、中国で常勝軍を組織して太平天国の乱を鎮圧したゴードンを総督に任命し、攻勢をかけたが、1885年には要地ハルトゥームの戦闘で戦死した。マフディー教徒はスーダンを占拠してたびたびエジプトにも運動を広げた。
ファショダ事件  その間、フランスがサハラ方面からエチオピアへのアフリカ横断政策をとってスーダンに進出してきたので、イギリスはアフリカ縦断政策にもとづきスーダン制圧を決意、1896年にキッチナー将軍の指揮で本格的に侵攻し、98年にはファショダ事件でフランスの勢力を排除し、さらに1899年にマフディー軍を全滅させて鎮圧に成功した。以後スーダンはイギリス植民地として1956年の独立まで支配される。 → アフリカ分割

Episode キッチナー将軍

 マフディー教徒の反乱でのゴードンの戦死はイギリスを驚かせた。後任となったキッチナーは負けるわけにはいかなかった。キッチナー軍は鉄道を敷設しながらスーダンに侵攻し、ファショダ事件でフランスを排除し、マフディー軍との戦いでは徹底的な殲滅戦を展開してそれを制圧した。イギリス軍はこの時世界で初めて機関銃を使用した。キッチナーは続いて南アフリカ戦争でもイギリス軍を勝利に導き、軍人としての名声を高めた。彼が三度目に脚光を浴びたのは第一次世界大戦がはじまったからであった。彼は陸軍大臣として迎えられ、人気のある彼の呼びかけで多くの青年が軍隊に志願した(イギリスは志願兵制)という。しかし、1916年に乗艦が撃沈されて戦死した。キッチナーはイギリス帝国主義を代表する軍人であったといえる。
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ノートの参照
第14章2節 ア.アフリカの植民地化