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左宗棠

清朝に仕えた漢人官僚で、曾国藩の湘軍で幕僚として太平天国鎮圧に活躍。李鴻章らと洋務運動を進め、中央アジアの国境紛争であるイリ事件の平定に当たった。

 左宗棠(さ・そうとう、1812~1885)は、清朝に使える漢人の軍人として曽国藩の創設した湘軍(湘勇)に加わり、太平天国の乱の鎮定に活躍。その功績で閩(びん)浙総督となった。
 1860年代の同治の中興の時期に興った、洋務運動を推進した李鴻章と並ぶ洋務派の中心人物の一人。1866年に太平天国鎮圧に加わったフランス人ジケルらの協力を得て、福州船政局(造船所)を建設して軍艦の建造にあたった。これは李鴻章の設けた工場と共に、洋務運動を代表する四大工場の一つとして、近代兵器の生産を担った。

陝西の回民反乱

 太平天国が蜂起したことは、清の支配下にあった広西・雲南・貴州・陝西などの辺境地帯の少数民族が決起する起爆剤となった。陝西・甘粛・雲南には多数の回民(ウイグル人イスラーム教徒)が広い範囲で居住していたが、彼らも少数民族と同様に清朝の官憲や韓人との間に様々な矛盾を抱えており、太平天国の蜂起が導火線となって、反乱を起こした。雲南では1856年に反乱が勃発、指導者杜文秀に率いられて大理を占拠して政権を樹立した。陝西では1862年に漢人と回人の武力衝突が起こり、雲南の回民反乱や太平天国・捻軍とも連携しながら陝西省の省都西安および渭水流域を席巻しさらに甘粛へと拡大した。この事態に驚いた清朝政府は、1866年に湘軍の一翼を担っていた左宗棠を陝甘総督に任命し、その鎮圧に当たらせた。
 左宗棠は捻軍と回民の連携を遮断し、近代兵器を用いた軍事的優位と、回民の強制隔離、懐柔などで69年までに陝西を支配し、73年までに甘粛の秩序を回復した。<清水稔『曾国藩』世界史リブレット人07 2021 山川出版社 p.77>

イリ事件

 陝甘総督であった左宗棠は、ウイグル人イスラーム教徒の反乱に、1871年にロシアが介入して侵入したイリ事件が起きるとその平定にあたり、1876年までに新疆を平定して領土を回復した。

参考 曾国藩と左宗棠

 左宗棠は曾国藩の湘軍の幕僚の一人として活躍し、その信頼を得ていたが、その関係には複雑なものがあった。近刊の岡本隆司著『曾国藩』には、左宗棠に関して次のような記述がある。
(引用)当代随一と自他ともに認める偉才・傑物でありながら、科挙の最終試験に合格できず、湖南で郷紳の身分のまま太平天国と戦い、やがて曾国藩に帰属して転戦、このとき浙江巡撫にしてもらっている。しかし性格は狷介、なかんづく同郷・同年輩で中央の華やかな文臣だった曾国藩には、終生コンプレックスを抱きつづけ、当時から必ずしも従順ではなかった。弟で右腕の曾国荃の失態を暴いたのはその一例だし、かてて加えて、任地に近い福建出身の逸材、湖南・湘軍とは別の人脈の陳葆楨と提携を深め、宛然一大対抗勢力を形作ろうとしている。そうした左宗棠の言動・態度は、いたく曾国藩の側近の顰蹙・反感を買った。<岡本隆司『李鴻章』2011 岩波新書 p.150>
 文中の曾国荃の失態とは、1864年、湘軍が太平天国の首都天京を膠着したとき、教主洪秀全の維持を取り逃がしたこと。曾国荃と兄の曾国藩は慎重への報告書でそのことを伏せていたが、左宗棠が暴露した。
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