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洋務運動

清朝末期の19世紀後半に漢人官僚が進めた西欧化政策。

アロー戦争(第2次アヘン戦争)に敗北した1860年から、日清戦争に敗北する1894年までの34年間にわたって行われた、清朝の近代化を進めた運動。その前半は同治の中興の時期に当たっている。

漢人官僚の洋務派

 アロー戦争の敗北は西洋の機械文明の優越を実感した清朝の咸豊帝・西太后など上層部の中に、列強の侵略と国内の農民反乱を防ぐには、西洋にならった産業の育成や、軍制の改革が必要であると考える漢人官僚が多くなった。漢人官僚の中心は、太平天国鎮圧の主力となった、曽国藩とその部下であった左宗棠李鴻章などであった。

近代化の内容

 彼らは上海など各地に四大工場などの近代的な造船や武器の製造工場を設立したり、陸海軍学校、外国語学習のための学校などを建設した。
四大工場 李鴻章(安徽省出身、淮軍を組織)による上海の江南製造局(銃砲・弾薬と汽船製造)と南京の金陵機器局(大砲と火薬)、左宗棠(湘軍出身)による福州船政局(造船所)、崇厚(満州貴族)による天津機器局(火薬と砲弾)の四つが洋務運動での四大工場とされる。四大工場あわせて2千から7千の労働者が賃金で雇われていたが機械と技師は外国に依存した。これらは機械制生産であるが、商品の生産ではないので資本主義企業とは言えない。<小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』1986 岩波新書 p.34>

理念とその限界

 その理念は、中国の伝統的な文化や制度を本体とし、西洋の機械文明の技術だけを取り入れようという「中体西用」であったので、根本的な改革には至らず、政権を維持するためだけのうわべの改革に終わった。例えば、鉄道の導入が風水思想による反対のために遅れたことなどに、その限界を見ることができる。
 その時期はちょうど日本の明治維新の時期と同じであり、近代化運動として両者が対比される。日本は統一国家の形成に成功したが、清では有力漢人官僚の私的な勢力である軍閥の形成が進み、結局崩壊した。軍閥は中華民国成立後も独立政権として各地に残存し、近代中国の統一国家の形成を阻害した。

宗主権の放棄

 また、洋務運動が行われていた1870~80年代は、清朝が周辺諸国に有していた宗主権を、次々と放棄していった時期であった。1871年、最初の対等な条約として日清修好条規を締結したものの、琉球帰属問題では74年の日本の台湾出兵により、事実上琉球を蜂起し、また翌75年の江華島事件以来の日本の朝鮮侵出により、朝鮮に対する宗主権を脅かされることとなった。また、ベトナムでは1858年のナポレオン3世のインドシナ出兵以来、フランスが侵出し1884年にベトナムを保護国化し、清はそれに抗議したが同年の清仏戦争で敗れて、天津条約(1885)を締結してベトナム保護国化を認めた。

洋務運動後の清朝

 それでも清朝は命脈を保っており、ヨーロッパ各国は「眠れる獅子」と見て、洋務運動の成果を見守っていた。しかし、朝鮮問題から勃発した1894年の日清戦争は、清国の一方的な敗北に終わったことによって列強は清朝の国力を見限り、98~99年に一斉に露骨な分割競争を展開する。その間、戊戌の変法という改革も頓挫し、外国の侵略に対する中国民衆の抵抗として起こった義和団戦争が鎮圧され、その約10年後に清朝は滅亡することとなる。

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ノートの参照
第13章3節 ウ.国内動乱と近代化の始動