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李鴻章

郷勇の淮軍を組織し、さらに北洋艦隊を私兵化した軍閥の代表的人物。日清戦争講和会議での清の全権大使。

 曽国藩の部下として頭角を現し、太平天国の乱では、郷勇の淮軍を組織し、その鎮圧に活躍した。

洋務運動

 太平天国鎮圧後、アロー戦争後の清朝の漢人官僚として、一定の上からの改革運動である洋務運動の中心人物となった。特に1865年から67年にかけて、軍事工場を中心とした四大工場など洋式工場の建設や炭坑、鉄道などの育成にあたった。
北洋艦隊 また、1874年に日本が台湾出兵を行うと、日本に対処するため近代的な海軍の建設を急務であると主張し、1884年に北洋・福建・南洋の三艦隊を整備にあたった。1888年に完成した北洋艦隊は清国海軍の主力部隊として近代的装備を持ち、日本の仮想敵国としていたので、日本にとって大きな脅威となった。陸軍としては淮軍を中核に北洋軍が編成されたが、それは依然として李鴻章の私兵としての性格が強く、李鴻章死後はその後継者袁世凱の権力を支える北洋軍閥といわれるようになる。

外圧への対処

 しかし1870年代から80年代にかけて清朝に対する周辺からの圧力が強まり、イリ事件(1871年)、イギリスのビルマ戦争によるビルマ併合(1886年)に伴う雲南侵出、ベトナムへのフランスの侵出に伴う清仏戦争(1884年)が続き、清朝の宗主権は次第に失われていった。

日清戦争の敗北

 1894年、朝鮮をめぐる日清両国の対立は、日清戦争へと突入する。李鴻章は、北洋艦隊や北洋軍が近代的軍隊として充分な制度に達していないことを恐れており、また日本軍との戦いで損失が出ることを惜しみ、会戦には消極的であったが、西太后周辺の積極派に押し切られ、開戦に踏み切った。しかし、恐れていたとおり、軍事的な敗北を追い込まれた。李鴻章は、ロシアやイギリスの仲介に期待したがうまくいかず、結局自らが乗り出して講和をはからなければならなくなった。

下関条約

 李鴻章は清朝の全権大使として伊藤博文と交渉し下関条約の締結に当たった。日清戦争後はロシアと結んで日本と対抗しようとし、三国干渉で遼東半島が還付されると見返りとしてロシアに東清鉄道の権利を与えた。また晩年には義和団事変後の8ヵ国連合軍との講和交渉も担当した。この間、1868年から1901年の死去まで内閣大学士を務め、清朝末期の政治と外交を一手に抑えてその存亡を担ったと言える。
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ノートの参照
第13章3節 ウ.国内動乱と近代化の始動