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曾国藩

清朝末期を代表する漢人官僚。政治家であり軍人。湘軍を組織し1862年に太平天国鎮圧に成功し名声を高めた。その間、軍備の近代化を進める洋務運動を主導した。清朝をささえる力は部下の李鴻章に継承された。

 曾国藩(1811~1872 そうこくはん。曾は異体の曽も一般に広く用いられている)は科挙で優秀な成績を収めて高級官僚となった漢人であった。満州人政権である清朝政府には全面的にそれを支える立場で仕えた。官僚であると同時に知識人、学者としても知られていたが、1851年1月、太平天国の乱が起こると、即位したばかりの清朝第九代の咸豊帝に乞われてその鎮圧に向かうことになった。曾国藩は郷里の湖南省湘郷で農民の間に生まれていた自衛武装集団である団練を組織化し、さらに同郷の郷紳(地方官吏層)を幹部として軍隊を組織した。それが湘軍(湘勇)であり、そのような軍隊を郷勇という。
曾国藩

曾国藩
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 曾国藩の湘軍は清朝の正規軍である八旗緑営が弱体化したため、太平天国軍との戦いの主力となり、数度にわたる戦闘を指揮し、苦しい戦況を切り抜け、14年にわたる戦闘の結果、1864年7月にようやく乱の鎮圧に成功した。
 その間、太平天国軍との戦いが続く中、曾国藩は左宗棠や李鴻章などの漢人官僚を配下にして勢力を拡大し、清朝宮廷の西太后のもとで洋務運動を推進した。それは西洋の優れた軍事技術を導入し、清朝の統治を安定させようとものであったが、国内の郷紳は依然として伝統的な儒教的価値観から反対する動きもあり、矛盾は深まっていった。
 彼は自己の私兵集団である湘軍を解散したが、そのような軍事力は後継者の李鴻章の淮軍に引き継がれ、洋務運動の武器近代化もそのような私的な軍隊の装備を強化することとなって、後の軍閥の形成へとつながっていく。曾国藩の湘軍はその端緒であった。曾国藩・李鴻章のように、満州人政権である清朝のもとで漢人官僚が発言権を持つという政治のあり方は、さらに袁世凱と受け継がれていくが、次第に矛盾が増大して清朝が倒れ、中華民国の段階になると「軍閥」として政治・軍事に強い影響力をもつ存在となっていく。
 以下、漢人官僚ながら清朝政府中枢で実権を握り、李鴻章や袁世凱などの進出の状況をつくりあげ、清末の政治情勢に大きな影響を与えた曾国藩について、その生涯を概観しよう。<岡本隆司『曾国藩』2022 岩波新書 によって構成>

科挙合格、エリートへの道

 湖南省湘郷県の地主の子に生まれた曾国藩は父の期待を一身に受けて科挙合格を目指す。8歳で父の学塾で受験勉強を開始、地方試験の郷試に合格し、地域の有力者、エリートである郷紳の一人となる。さらに中央試験の会試を突破し、28歳という異例の若さで天子の最終試問である殿試をへて任官した。このとき、それまでの名の曾子城を改め、曾国藩と名乗るようになった。 → 曾国藩の科挙合格までの経過については科挙の項を参照。
 1840年、アヘン戦争が始まった年、曾国藩は翰林院の一員となり、高級官僚としての儒学の素養を高める努力を続けた。次いで侍講に任命され道光帝に仕える超エリートとしての歩みをはじめ、四川省の郷試の試験官として派遣されて人脈と資産を増やし、1847年には内閣学士、礼部侍郎とトントン拍子に出世した。1850年には道光帝が死去、若い咸豊帝が即位すると、曾国藩はその信任を得て中央政界での地位を築いた。
李鴻章との師弟関係 この間、1845年には会試の試験官をつとめた。受験生だった李鴻章はその時は落第したものの、次の会試・殿試で合格して、曾国藩との師弟の関係を結び、両者の深い関係が生まれた。この関係は、次の太平天国の乱という清朝最大の危機を克服し、その後の歴史を動かすこととなる。

太平天国の乱と湘軍

 1851年に本格化した太平天国軍は勢力を拡大し、1853年に南京に入り天京と改めた。清朝の正規軍である八旗はその勢いを止めることができないまま、太平天国は江南地方を中心に独立国家を樹立した。さらに北京遠征を目指したが、その前段として長江中流の湖南・湖北方面への進出を開始した。その防衛をまかされたのが曾国藩であった。
 太平天国軍は湖南の首都長沙を攻撃したが抜くことができず、北上して長江中流の要衝、湖北省の武昌(武漢三鎮のひとつ)にむかった。そこで北京政府(咸豊帝)から曾国藩に対し湖南の団練を編制指揮して匪賊(太平天国軍)の鎮圧に当たれという命令が出された。団練は半世紀前におこった白蓮教徒の反乱の際に、自警団として組織され郷土防衛にあたっていた民間武装集団である。曾国藩はもともと文人官僚であるので、躊躇した(母の服喪中でもあった)が、命令に従うことを決意し、まずその第一段として長沙で審案局という部署を設け、太平天国教徒とその同調者の徹底した弾圧を行った。このとき半年足らずで二百人以上を処刑し「曾剃頭(首切りの曾)」との悪名をあびせられた。この徹底した取り締まりは治安回復が団練の再編成の前提と考えからであった。
湘軍を組織 曾国藩は在来の正規軍や団練とは異なるレベルの強力な軍隊を組織しようと考えた。1853年3月、曾国藩は湘軍(湘勇)の組織に着手、まず質朴な農民を月額4両の高給で雇い兵士に仕立てて部隊を編制した。同時に同郷の郷紳たちによびかけ、親戚・友人・弟子などをあつめて、彼らを部下の将校とし小規模な部隊をそれぞれ統率させた。<岡本『曾国藩』p.83>
(引用)つまり、自身の個人的な人間関係を、そのまま軍事的な指揮系列におきかえ、以前ならバラバラに散在していた「団練」を結集して、未曾有の規模の義勇軍をつくりあげたのである。
 郷土を防衛するだけなら、それまでの「団練」でもよかった。しかし太平天国は急速に強大化し、清朝に取って代わることを公言し、北京までもうかがおうとする勢力になっている。とても従来のやり方でたちむかえる相手ではない。ほんとうに対抗して打倒するためには、郷里を離れて転戦でき、なおかつ相応の規模をもつ軍隊組織が必要だった。そこに気づいて新しい方法を案出したところ、凡百の朋輩からぬきんでていた曾国藩の才覚だったと言えよう。<岡本隆司『李鴻章』2011 岩波新書 p.31-32>
 湘軍を動かすに当たって曾国藩は1854年1月、全軍に「粤匪を討つ檄」(広東・広西の賊を討つ檄文)を発し、太平天国は「天主教」という邪教を崇め、孔子以来、中国数千年の礼儀・人倫を乱す賊軍であるとしてその討伐を呼びかけた。<岡本『曾国藩』p.87-89>
POINT  湘軍の新しさ 要約すると郷勇の代表例である曾国藩の湘軍の新しさは、従来の団練の血縁的結びつきをもとにしながら、給与を支払うことで新たな義勇兵をリクルートし、同郷人のネットワークで組織して、郷土防衛だけでなくより広い活動を可能とする軍隊組織とした点にあると言えよう。また曾国藩が強調したのは、キリスト信仰という異質な理念をもつ太平天国軍と戦うに当たって伝統的な儒学の価値観に立ち、その理念を守るところに意義があると信じたことであった。

Episode 曾国藩、入水自殺未遂事件

 曾国藩率いる湘軍の太平天国軍との戦いは、実際には苦戦続きだった。特に長江中流域での戦いでは水軍は不可欠であったが、その水軍編制で湘軍は決定的に遅れていた。ある戦いではこんなありさまだった。
(引用)天候不順で官制を失った水軍は、太平軍の焼き打ちに遭って、強風にあおられ焼け沈む戦船が続出、全軍総崩れになるのを押しとどめることができなかった。統率力の不足である。
 あわてて上陸した曾国藩は、軍旗をおしたてて、「旗を過ぐる者は斬る」と大書し、自ら抜刀して仁王立ち、敵前逃亡を防ごうとした。しかし兵卒はかれを横目に、旗を迂回してどんどん逃げてしまう。
 曾国藩は憤激絶望のあまり、悄然として歩き出すや、目前の湘江にとびこんだ。しかも二度にわたってである。左右の者があわてて救いあげて、どうにか事なきを得た。<岡本『曾国藩』p.96>

太平天国軍との戦い

 科挙に28歳で合格した天才といっても、文人官僚である曾国藩には現場の軍隊指揮には向いていなかったということであろうか。しかし幸運にもこの時は別部隊が太平軍を破ったため、全体では敗戦にならなかった。一時は遺書も書いた曾国藩だが、思い直して再起を期す。半年後に湘軍は省都の長沙を奪回し、曾国藩も名誉を回復、湘軍の存在価値は高まった。
湘軍の財源 しかし、1855年、南京を目指す湘軍は九江の戦いで石達開指揮する太平軍に大敗し、曾国藩は二度目の入水自殺を図る。実際の苦戦だけでなく曾国藩を悩ませたのは、湘軍維持の財源だった。湘軍にくわわったのは高給に期待した貧しい農民であったが、戦闘が長引いて未払いが続くこともあった。湘軍は曾国藩の私兵という扱いだから政府当局からの手当は一切ない。実際、清朝はウルトラチープガバメント<岡本『同上書』p.111>だった。そのため、団練・郷勇の軍事支出は、自辨・現地調達が原則となる。同時に、行く先々で「捐納」といわれた義捐金を募集し、商人からは「釐金りきん」をとりたてた。釐金とは反乱軍を鎮圧する目的のため商人から市場の営業権や通行税(一種の関税)という名目で納めさせる実質的な税の徴収であった。
両江総督 太平天国軍との戦いはその後も一進一退を続け、太平軍が蘇州を占拠すると、1860年4月、曾国藩はその奪還を目指し両江総督(江蘇・安徽・江西三省を管轄)に任命された。この1860年に大きな転機であった。すでに1856年に始まっていたアロー戦争は、イギリス・フランス連合軍がついに首都北京に侵攻する事態となった。狼狽した朝廷は曾国藩に北京奪還を命じるが、太平天国軍と対峙している曾国藩と湘軍は動けない。イギリス・フランス連合軍が円明園を焼き打ちしたのは1860年10月だった。

李鴻章、淮軍を編制

 曾国藩は長江下流域を統括する両江総督として太平天国鎮圧の最高責任者となり、部下の左宗棠李鴻章らに前線の指揮をまかせ全面的な攻勢に移った。太平天国側では内紛が続き、軍事指導では陳玉成、李秀成が残るのみとなっていた。李秀成は上海を攻撃したがイギリス軍に阻まれ、陳玉成は安慶の戦いに敗れて捕らえられた。
 こうして曾国藩の湘軍は最後の目標、太平天国の首都天京(南京)をめざすことになった。しかし大きな問題に直面していた。
(引用)当時の湘軍は、11万という規模に膨張しながら、戦線の拡大で手一杯、しかも創設からはや10年、精鋭を謳われた往時とは変わり果てた姿となっていた。曾国藩もしばしばその「暮気」を嘆くほど、規律も乏しく綱紀も弛緩し、劣悪な清軍や反乱軍と大差ないありさまだった。頼みとする郷里近辺の人的資源も枯渇していたから、湘軍自体の派遣はむずかしい。<岡本『曾国藩』p.140>
 そこで曾国藩は、幕僚の一人の李鴻章に命じ、その出身地の安徽省に帰郷させ、その地の団練を中心とした新しい軍隊の徴募にあたらせた。李鴻章は20年前、曾国藩が会試・殿試の試験官であった時の受験生で、それ以来の師弟関係にあった。李鴻章は故郷安徽省で募った義勇兵3500を、湘軍の編制・戦法にならって組織した。この李鴻章の私兵としての故郷の義勇軍は淮軍と名づけられ、1862年4月、湘軍とともに太平軍の天京を挟撃する態勢となった。
太平天国の滅亡 湘軍の曾国せん(曾国藩の弟)は天京を西から攻撃、さらに東側からは李鴻章が上海から西進して蘇州を奪還、左宗棠は浙江省杭州を回復した。こうして天京は包囲され、1864年7月19日に曾国荃率いる湘軍が城壁を突破、その前の6月1日はすでに洪秀全が病死しており、太平天国の反乱は終焉した。
 太平天国は14年間に及んだ騒乱であり、主要な舞台は江蘇・浙江・安徽・福建・江西・湖北・湖南では7千万人以上の死者を出したとする推計もある。太平天国滅亡の翌1865年年に終結したアメリカの南北戦争は多く見積もって死者は百万人。世界史上、人類史上最悪の内戦であったともいわれている。<岡本『曾国藩』p.146>

Episode 曾国藩、敵将の供述書を偽造か

 曾国藩は太平天国滅亡から9日後の1864年7月28日、南京に入って戦後処理にあたった。湘軍は戦地での略奪を将兵の戦利品として与えていたので、南京は湘軍の略奪、放火で灰燼と帰していた。曾国藩は捕らわれていた敵将李秀成を取り調べ供述書を取ったうえで8月7日に処刑した。ところがこれが後に問題となった。天京陥落の際、湘軍の曾国荃は、教主洪秀全の遺児幼天王は自害したと報告していたが、実は李秀成の部隊が助けて天京を脱出させていた。曾国藩はその事実を隠すため、李秀成の供述書を偽造し、真相が漏れるのを恐れて直ちに李秀成を処罰したのだと、告発した者がいたのだ。その告発者はなんと曾国藩と同郷で彼に従って湘軍で部下となっていた左宗棠だった。<岡本『曾国藩』p.148-149>

湘軍を解散

 湘軍の総帥、太平天国の乱の平定者として曾国藩の名声は、湘軍の南京での蛮行、曾国荃の失態によって揺らいだ。そこで曾国藩は、弟曾国荃を故郷に帰し、麾下の湘軍の解散に踏み切った。遅配しがちだった俸給も将兵に順次もたせて湖南に帰した。書生出身の将軍らには数万両の銀をもたせたという。しかし曾国藩自身は戦利褒賞を受けとらなかった。彼には宋学の理念に従い聖人を目指して清貧な日常生活を送ろうする姿勢が、いよいよカリスマ性を増したともされている。<岡本『曾国藩』p.151>

同治の中興

 1861年8月、アロー戦争の英仏連合軍の北京侵攻を逃れた咸豊帝は、熱河で死去、代わって継嗣の同治帝が即位、生母西太后が実権を握った。曾国藩は太平天国の乱鎮定の総指揮権を任されていた。そして太平天国滅亡後はその功績として、曾国藩は一等侯爵を、李鴻章・左宗棠はそれぞれ一等伯爵をさずかり、漢人官僚として同治の中興といわれる清朝の復興にたずさわることとなった。しかし現実は太平天国に代わる反清朝の捻軍の反乱、列強との関係という内外の危機は続いており、また満州人官僚と漢人官僚の対立、漢人有力者間の主導権争いなどが続き、不安定な状況が続いた。
捻軍 太平天国の反乱の前から淮河地方で反乱をつづけていた捻軍に、太平天国滅亡後の残党が加わり山東半島で蜂起すると、清朝政府は曾国藩に鎮圧を命じた。曾国藩も作戦を立案するなど討伐に当たったが、すでに私兵である湘軍を解散しており、指揮の実効力を失っていたことから、その権限を李鴻章に譲った。李鴻章は主力の淮軍を指揮して1868年8月までに捻軍の鎮圧に成功した。曾国藩はその後、軍務・政務の全般で李鴻章に後事を託し、自らはそのバックアップに廻ろうとしていく。
洋務運動 曾国藩はすでに早く、1861年に太平天国軍から安徽省安慶を奪還して本営としたとき、その地にはじめて内軍械所という軍需工場を設立した。彼は太平天国軍と戦いをつづけながら西洋の科学技術を取り入れた軍事産業を興す必要を痛感した。アロー戦争などでの英仏軍の軍事力に刺激されたとも考えられる。当時そのような動きは洋務運動といわれ、曾国藩は漢人官僚の中で最も早く動いたとされる。特に上海に設置した軍需工場である江南製造総局が最も著名な施設とされている。しかし、科挙合格者で文人官僚から出発した曾国藩は、同時に厳格な宋学の遵法者でもあり、「洋務」に心から同調していたとは思えない。洋務運動を推進したのは上海で外国の科学技術の実際の力を実体験していた李鴻章であり、曾国藩はその上司としてそれを容認した、という関係であった。
直隷総督 1860年から両江総督であった曾国藩は1868年、直隷総督に任じられた。直隷とは北京に直接に隷属する省、の意味で現在の河北省から内モンゴルの一部にわたる中枢を管轄とするポスト。総督とは「政務・軍務を統括する地方官」のこと。したがって、いわば首都圏の政治と軍事を任されたことになり、太平天国平定の功績で第一等侯爵となっていた曾国藩にふさわしい地位であった。同時に朝廷内ではイギリスとの条約改正問題で依然として反洋務派の排外的守旧派も力も残っているので、洋務派に近い曾国藩にその抑えの存在として期待された。
「教案」での苦慮 しかし、両江総督・直隷総督としての曾国藩が解決しなければならなかったのは、キリスト教の布教の自由が認められた結果としてキリスト教教会が各地に建設され、そのために地域でトラブルが多発し、民衆の中に反キリスト教運動として盛んになっていた仇教運動であった。「教案」とも呼ばれる民衆と教会の衝突事件は、1868年江蘇省揚州と1870年の天津で起こった。曾国藩は前者を両江総督、後者を直隷総督としてその対処に当たった。1870年天津教案は、フランス人神父の教会附属孤児院で孤児が殺害されているとの噂が広がり、天津の地方当局が教会の立入調査を要求したことにフランス領事が憤慨して開港場を統括する通商大臣に抗議して威嚇発砲したため中国人が一人死亡、激昂した群衆がフランス領事らを殺害、さらに教会・孤児院を略奪し死者が多数でた。この衝突は外交問題に発展し、直隷総督として曾国藩はすでに病身であったがフランスとの折衝に努め、3ヶ月にわたる交渉の末、領事殺害、教会襲撃などについて謝罪し、暴動を扇動した人物16名を処刑、賠償金21万両、弔慰金28万両を支払うことで決着を見た。しかしこの問題は、洋務派官僚としては外国との条約を尊重しなければならない立場と、仇教運動のような排外主義を主張する層が自らの出身社会層である郷紳など地主層であることとの矛盾があり、曾国藩は苦慮せざるを得なかった。
 洋務派としては、71年に上海の江南製造総局を訪問して新造の艦船に試乗したり、アメリカへの留学生の最初の派遣を実現(児童30名を派遣)したり、日清修好条規の交渉にも関与した。その後も公職をこなしながら、1872年3月、62歳で死去した。最後まで真面目に日記を付けてたという。