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日清修好条規

1871年、日本と清の間で最初に締結された、国交を樹立した条約。両国間で対等な平等条約であった。日清戦争によって廃棄され、下関条約に基づいて1896年に締結された日清通商航海条約は、清は関税自主権と治外法権を失う不平等条約となった。

 明治維新で成立した日本の明治政府は、清国と朝鮮、日本の三国関係での独立国家としての優位な立場を確立し、欧米諸国との不平等条約の改正の前提としようとした。この三国の関係のうち、清国と日本は江戸時代には長崎貿易でのつながりはあったが、朝貢関係ではなく外交上の関係も無かった。朝鮮は清国を宗主国として朝貢しており、清は朝鮮を属国視していた。朝鮮王朝と日本の関係は、江戸幕府の将軍の代替わりことに朝鮮通信使を派遣したが、日本側の使節は釜山の倭館どまりでが朝鮮王朝の都に行くことは無かった。また、琉球王国は薩摩藩の武力支配を受けていたが、形式的には清国にも朝貢しており、日本と清国に「両属」するという微妙な位置にあった。

明治政府と清朝の交渉

 明治政府は、まず清国との対等な関係を条約として結び、それによって朝鮮に対しても優位に立とうとして、清国と交渉した。清朝側では、倭寇や豊臣秀吉の朝鮮出兵、明との戦争などの歴史から、日本に対する警戒心が強かったが、李鴻章らの首脳と、外交に当たった総理各国事務衙門(総理衙門)は、むしろ条約締結によって日本の野心を抑え、内容を対等にすることで欧米との不平等条約の改正によい影響が出ることを期待して、1871(明治4)年9月、日清修好条規が締結された。

対等な条約内容

 日清修好条規の内容は次の三点に要約される。
・相互に外交使節を常駐させること。
・領事裁判権を相互に承認すること。
・領土に関しては「両国に属したる邦土もおのおの礼をもって相まち、いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」と定めた。
 なお、通商関係では別に通商章程・海関税則を定め、互いの関税自主権を認めた。このように日清修好条規の規定はいずれかに不平等なものではなく、対等な条約であった。ただし、治外法権については、領事裁判権を相互に認めるという規定になっており、その点で変則的な内容であった。

意義と解消

 日清修好条規は、日本にとっても、中国にとっても、近代で初めて締結された外国との対等な条約であった。しかも、両国が対等な権利をみとめた平等な条約であった点は、当時、清国も日本も欧米諸国との間の不平等条約に苦しめられている中で、大きな特徴であり、意義があったといえる。
 しかし日本は国力を強めるに従い、清に対し欧米各国との不平等条約で認めている特権を日本にも認めよ、という要求をするようになった。また、この条約で、領土に関しては相互に「いささかも侵越することなく、永久安全を得せしむべし」とあるが、早くも3年後の日本の台湾出兵で破られることとなる。そして日本の琉球併合を経て、朝鮮を巡る対立から日清戦争となり、その開戦によって日清修好条規は事実上、解消された。
 その後の日露戦争での旅順などの獲得、満州事変、日中戦争と続いた歴史を見るとき、日清修好条規の条文は何ともむなしい想いに駆られる。日清戦争の後の下関条約で日清修好条規は廃棄され、新たに日清修好通商条約という名の不平等条約が締結されて日本の優位が確定したのだが、両国の最初の条約がこのように対等、そして平和的だったことは、現在の日中間の尖閣諸島をめぐる対立、不正常な関係などを考える際にも忘れない方がいいだろう。

日清戦争後の日清通商航海条約締結

 日清戦争の講和条約として1895年4月に締結された下関条約の第6条によって日清修好条規は破棄され、新たに通商航海条約を締結することが定められた。その際、新たな通商条約は中国が西洋諸国と結んでいた条約を見本としなければならないとされた。この条項に基づいた交渉が日清間で行われ、1896年7月に日清通商航海条約が締結された。
 この日清通商航海条約により、日本は清国内での治外法権を獲得(領事裁判権、租界の設置)と関税上の特権(清の関税自主権は無く、協定税率つまり両国の協定で関税を決める)などが認められた。これによって日清関係は従来の日清修好条規による対等なものではなく、片務的に日本が有利な不平等条約のもとにおかれることになった。言い換えれば、清及びその後中国は、アメリカ・イギリスなど西洋諸国と同様の従属的な関係が日本にも拡大したといえる。
 1911年の辛亥革命によって清朝が倒れたが、翌年発足した中華民国は清朝が日本を含む諸外国と締結した不平等条約をそのまま継承した。中国の国家的、民族的課題は日清修好通商条約も含む不平等条約の改正によって「半植民地」状態から脱却することに置かれることとなる。
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