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台湾出兵

1874年、日本の明治政府が琉球漁民の殺害に対する報復を口実に台湾に出兵した。日本最初の海外派兵。琉球(現在の沖縄)の日本領が事実上確定した。

 1871年、当時の琉球王国に属する宮古島の貢納船が台湾の北部に漂着し、54名が台湾人の牡丹社という「生蕃」に殺害されるという事件が起こった。生蕃とは清朝の支配を受けていない先住民の少数民族を意味する。当時、琉球は日本と清の双方に朝貢する「両属」の国とされ、両国間でその帰属を巡って対立が生じ始めていた。

琉球帰属問題につなげる

 明治政府はこの琉球島民遭難事件を琉球帰属問題に利用しようと考え、さっそく外務卿副島種臣が清政府に打診したところ、清朝の総理各国事務衙門(総理衙門)は、琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではないとし、台湾の生蕃については清朝の「化外の民」(統治範囲外の人々)であるから、関係がないと答えた。

日本軍の最初の海外派兵

 そこで明治政府は、琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして清朝が処罰できないなら、自ら討伐するとして、1874年5月、陸軍中将西郷従道の指揮の下、3600名の台湾遠征軍を派遣した。遠征軍は牡丹社の頭領親子を殺害したが、マラリアで500人以上が死ぬという事態となった。清朝は、日清修好条規に定める領土の相互不可侵の項目に反するとして抗議したが、当時は洋務運動の進行中で、近代装備の海軍が未完成であったため、開戦に踏み切れなかった。

琉球が日本領であることを清が事実上認める

 明治政府は大久保利通が自ら北京に赴き、北京駐在のイギリス公使ウェードの仲介によって妥協を成立させ同年10月31日、日清互換条款を締結した。イギリス及び諸外国は、日本と清の戦争はアジアを不安定にし、貿易活動に障害となることを恐れたのであった。この妥協では、清国は日本の出兵を「義挙」と認め、償金を50万両支払うという内容であった。その和解書の文面に「台湾の生蕃かつて、日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文があったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めた、と解釈し、琉球併合を推し進めることとなる。

台湾出兵の意義

 1874(明治7)年の日本の台湾出兵は「征台の役」ともいわれた近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが盛んに征韓論(外征論)という朝鮮半島への出兵を主張していたが、大久保利通ら政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立していた。台湾でおこった問題は、朝鮮問題と並ぶ琉球帰属問題というもう一つの領土問題の懸案だった。台湾に対しては内治派の大久保らも出兵を推進しており、明治政府の基本姿勢は外征を全く否定するものではなかった。翌1875年江華島事件でも、明治政府は対外強硬姿勢をとっており、その本質は対外膨張路線であったことが明らかである。西郷隆盛の主張は倒幕の主力であったいわば「革命軍」を優遇し、それに新たな役割として「外征」を与えよ、というものであったのに対し、大久保はまず経済、産業、税制の整備など国内の統治体制を造ることを優先し、近隣に対しては軍事と交渉の併用によって優位な立場を築くべきである、というものであったとまとめることができよう。
 西郷と大久保の対立は、大久保利通が主導した台湾出兵、江華島事件、翌76年の日朝修好条規の締結、という外交上の「成功」によって大久保の勝利が明確となり、ついに追い詰められた西郷らが武装蜂起した1877(明治10)年の西南戦争で敗れるという経過をとる。 → 日朝修好条規の項を参照
 さらに台湾出兵によって清朝に琉球が日本領であることを認めさせてた上で琉球帰属問題を解決させた明治政府は、1879年に琉球藩を廃止して沖縄県を置くという琉球処分(琉球併合)を可能にした。台湾出兵から20年後の1894年には日清戦争となり、その結果として下関条約で台湾の日本への割譲が決定される。台湾出兵は日本の中国侵略の第一歩という意味をもっていた。
 → 参考 <朝日新聞 asahi.com 歴史は生きている(東アジアの100年)

参考 日本近代史から見た台湾出兵

(引用)台湾出兵は1874(明治7)年5月に、他ならぬ大久保利通の手によって断行された。軍艦六隻に約3600人の兵隊を乗せた大掛かりの出兵であった。注目すべきことは、この3600人の中には、征韓論分裂で鹿児島に引き上げていた西郷配下の義勇兵が多数含まれていた点である。『西郷記伝』(上巻の一)によれば、この鹿児島義勇兵は谷干城率いる熊本鎮台兵と並んで「征討軍」の主力をなしていたという。約三年後(西南戦争)にこの二つの主力同士が、熊本城の攻防で敵味方に分かれることは、彼らの想像外のことであったろう。<坂野潤治『日本近代史』2012 ちくま新書 p.133>
 『日本近代史』著者の坂野氏はつづけて、台湾出兵には次の三つの点で重要であると述べている。
1.1873年10月に一旦は正面衝突した「富国」と「強兵」が翌年には「富国強兵」として再合体したこと。内治派とされる大久保は「富国」路線であり、征韓論の西郷は「強兵」路線だった。富国と強兵は時期によって対立する国家目標だった。
2.征韓論争では同じく内治派だった木戸孝允は、国内の財力、法整備を優先すべきとして台湾出兵にも反対した。木戸は琉球帰属問題でも清の主張を全面否定するのは困難と考えていた。
3.強硬派の主張は対清開戦論であり、二〇年後の日清戦争を、1874年に起こそうという主張だった。それは薩摩出身でありながら征韓論で西郷と別れて大久保についた黒田清隆と川村純義であった。<坂野潤治『前掲書』p.133-139>
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書籍案内

清沢洌
『外政家としての大久保利通』
1993 中公文庫
初版1942

西郷の征韓論に反対しながら自らは台湾出兵を推進し清との折衝に当たった大久保利通。その判りづらい二面性を解読。筆者は戦前に活躍し気骨あるジャーナリスト。『暗黒日記』で知られる。

坂野潤治
『日本近代史』
2012 ちくま新書