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樺太/サハリン/樺太・千島交換条約

1875年、樺太・千島交換条約で、日本(明治政府)は樺太(サハリン)を放棄してロシア領とし、千島列島の全島は日本領とすることを取り決めた。その後、日露戦争のポーツマス条約で日本は南樺太を獲得。第二次世界大戦での敗北により日本は樺太・千島列島を放棄、ソ連が領有した。ただし、国後・択捉・歯舞・色丹の四島は日本は千島列島には含まれないものとして返還を求めている。

 樺太は日本での地名。ロシアではサハリンという。北海道の北にある大きな島。清朝の最盛期にはその支配が及び、島民は朝貢した。18世紀末から、ロシア人と日本人が移住するようになったが、当初は両者が共存していた。
 樺太は1855年2月の日露和親条約で日露双方の雑居地とされたが、その後も紛争が絶えず、幕府にとっても頭痛の種となっていた。明治新政府はその問題を引き継ぎ、交渉を開始、初めは副島種臣があたったが、征韓論で敗れて下野してからは北海道開拓使次官黒田清隆がリードした。黒田は明治新政府の基盤が脆弱であるのでロシアとの紛争を避け、北海道の開拓に全力を挙げるべきであると主張し、樺太の放棄をロシアに提案し、千島を得ることで合意が成立した。<木村汎『日露国境交渉史』1993 中公新書 などによる>

樺太・千島交換条約

 1875年5月7日、日本(明治政府代表榎本武揚)とロシア(アレクサンドル2世)の間で北方の領土としてロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定め樺太・千島交換条約が締結された。樺太及び千島に住んでいる両国人は国籍を維持したまま残留することが認められ、その場合は営業、所有の権利、信教の自由が保障された。ロシアのサンクト=ペテルブルクで締結されたので、サンクト=ペテルブルク条約ともいう。

南樺太の日本への割譲

 樺太(サハリン)は日露戦争で日本軍が全島を占領したが、戦後の講和条約のポーツマス条約では南半分だけが割譲された。
 第一次世界大戦のさなかにロシア革命が起きると、日本軍はアメリカなどと共同でシベリア出兵を行った。その時、1920年にニコライエフスク事件で日本人居留民が殺害されたことを理由に、日本軍はその対岸の北樺太を占領した。それは、このころから海軍の軍艦の燃料として原油の必要性が増しており、日本軍はその資源を狙ったものと思われる。
 ロシア革命がボリシェヴィキの勝利となってソ連邦が成立したが、日本軍はそのまま樺太駐留を続け、長期にわたるシベリア出兵は国際的にも、国内的にも批判が強まった。ようやく日本がソ連の承認に踏みきり、1925年日ソ基本条約が締結されたことにより北樺太から撤退した。同時にソ連もポーツマス条約の効力を認め、南樺太が日本領であることを認めた。

南樺太、ソ連領へ

 第二次世界大戦では、ソ連はヤルタ協定において、対日参戦の代償として南樺太の収容をイギリス・アメリカに認めさせ、参戦と共に侵攻して全島を占領、1946年に併合した。日本はサンフランシスコ平和条約で海外領土の一部として樺太の放棄も認めた。 → 北方領土問題

News サハリン 姿消す日本の鉄道

 サハリンでは日本統治時代に建設された鉄道が、ロシアの線路幅に改修するため、姿を消しつつあるという。樺太と言われた日本統治時代の鉄道は、旧国鉄やJRと同じ1067mmであったが、ロシア式は1520mm。現在のサハリンでは806kmの営業路線すべての改修を2003年に着手し、2020年の完成を目指している。樺太を占領したソ連は日本の鉄道設備は車両、線路もそのまま使っていたが、ロシアからのフェリー輸送が増えたため台車の交換の効率化を目指す必要が出てきたのだ。サハリンの州都ユジノサハリンスク(日本名は豊原)の駅前には日本のD51型蒸気機関車が展示されている。1920年代製の除雪車は使い勝手が良く、台車だけ付け替えて今後も現役で使われるだろうと関係者は言っている。<『朝日新聞』2016年8月15日付け>
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書籍案内
日露国境交渉史 表紙
木村汎
『日露国境交渉史―領土問題にいかに取り組むか』
1993 中公新書