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ヤルタ会談

第二次世界大戦の末期、1945年2月に開催されたアメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳による戦後処理に関する会談。

ヤルタ会談
チャーチル、ローズヴェルト、スターリン
 第二次世界大戦の末期、イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日~11日に開催された連合国の戦後処理構想に関する首脳会談である。ヤルタはロシアのクリミア半島にある保養地として有名なところ。参加者はイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領F=ローズベルト、ソ連首相スターリンとその随員。
 三国による戦後処理についての協議が行われ、国際連合の設立については、44年8月~10月の国際連合憲章を検討する実務者会議のダンバートン=オークス会議で暗礁に乗り上げていた拒否権問題ではソ連の意向に沿ってそれを認めることで一致した。また、ドイツの戦後処理では米・英・ソ・仏の4国による分割管理などを決定したが、ポーランド・バルカン半島の処置をめぐってはイギリスとソ連の意見が対立した。2月、ヤルタ協定を発表して終了した。F=ローズヴェルトは会談中から病気で状態が悪かったが、帰国後の4月に死亡した。
 このヤルタ会談によって、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げた。ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談まで継続することとなる。

ヤルタ協定

1945年2月、ヤルタ会談によって成立した、アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳が合意した大戦後の国際体制構想。

 ヤルタ会談で合意された内容は、1945年2月、ヤルタ協定として発表さらた。その主な決定事項は次の通り。
  1. 国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。(補足)
  2. ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。 → ドイツ4カ国分割占領
  3. 東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみややかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
  4. ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属(→北方領土問題)、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州および東支鉄道経営へのソ連の参加権、外蒙の現状維持など。この第4項は、秘密条項であった。 → 日本の無条件降伏
 この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつ。
(補足)ソ連は、拒否権問題でアメリカに全面的に妥協した見返りとして、国際連合にウクライナベラルーシ(当時は白ロシア)を加盟させることを要求した。この二国はソヴィエト社会主義共和国連邦に属しており主権国家としての条件は十分ではなかったが、イギリスもイギリス連邦自治領インドを加盟させるため同調し、ローズヴェルトも妥協した。

ヤルタ体制

ヤルタ会談での米英ソ三国首脳の合意であるヤルタ協定でつくられた、第二次世界大戦後の国際体制。1945年から冷戦終結の1989年までを言う。

 1945年2月の連合国首脳会談であるヤルタ会談で合意されたヤルタ協定によってつくりだされた、国際連合の枠の中での、アメリカ合衆国とソ連という二大国の力の均衡を前提とした国際秩序が生まれた。この、第二次世界大戦後の「冷戦」時代の国際秩序を、ヤルタ体制という。ナポレオン戦争後のウィーン体制、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制に倣ったものである。このヤルタ体制は、大きく変動しながら、枠組みそのものは1989年の米ソ首脳のマルタ会談による「冷戦終結宣言」まで続き、「ヤルタからマルタへ」と言われた。
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第15章5節 エ.ファシズム諸国の敗北