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ブーランジェ事件

1889年、フランスで軍国主義者が共和制転覆を謀った事件。

1889年、第三共和政に対する軍部・右派からのクーデター未遂事件。陸軍大臣だったブーランジェ将軍は、1887年に当時ドイツ領だったロレーヌ地方でフランス人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致された事件(シェネブレ事件)が起きると、外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、即時軍事行動による報復を唱え、閣内不一致で罷免された。一斉に将軍支持の世論が高まり、日頃対独復讐を唱え、軍備拡張を主張している王党派(ブルボン王朝の復活を主張)やナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者の出現を求める一派)などが愛国者同盟を結成し、共和政府打倒に動き出した。また急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブランキの系統)らは議会政治を否定する立場から共和政を倒し軍事独裁政権の樹立を支持した。当時は共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆はブーランジェ将軍を救国の英雄と期待していたので、同年に行われた選挙で多くのブーランジェ派(ブーランジェスト)が当選し、街頭では共和政府打倒、独裁政権樹立を叫ぶ群衆のデモが盛んに行われた。1889年にはクーデタの決行寸前まで行ったが、政府はコンスタン内相がブーランジェ将軍を国家転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗し、ブーランジェは突然ベルギーに亡命したため、運動は急速に衰退した。

Episode 愛人に殉じたブーランジェ将軍

 将軍にはマルグリット=ドゥ=ボムマン夫人という愛人がいた。将軍は陸軍大臣を罷免された後、クレルモン=フェランの地方司令官に左遷されたが、謹慎中であるにもかかわらず司令部近くの「マロニエの家」という旅館で、夫人と逢い引きを重ねていた。将軍には妻がいたが、離婚協議中であり、夫人にももちろん夫がいたが、二人は深く愛し合っていた。将軍が亡命先のブリュッセル、ロンドン、ジャージー島にも密かに夫人はついて行った。その間、夫人は肋膜炎で病に伏す。将軍は政治的な野心と夫人への愛情の板挟みで悩んだが、ついに愛を選び、夫人の死のあとを追い、1891年9月30日彼女の墓の前で拳銃自殺した。将軍のスキャンダルによって、ブーランジェ派の反共和政の運動は急速にしぼんでしまった。<大佛次郎『ブゥランジェ将軍の悲劇』1935 現在は大佛次郎ノンフィクション全集8(朝日新聞社)に収録>
大佛次郎の警鐘 大佛次郎は昭和5年の『ドレフュス事件』に続いてフランス史に題材を採り、小説であるが史実に忠実に、郡部クーデター事件をとりあげ、昭和10年、『ブゥランジェ将軍の悲劇』として雑誌『改造』に発表した。それは日本でもまさに議会政治が危機に瀕し、軍部が台頭するという時期であった。そして翌年には二・二六事件が勃発する。大佛次郎はフランスという舞台を借りて、軍部独裁への警鐘を鳴らしたのだった。
 ブーランジェ将軍が独裁者になりきれずに自滅したので、フランス共和政の危機は救われたが、普仏戦争の敗北という中でフランス国粋主義に火がついたことは事実だ。フランスではいわばボヤのうちに消し止められたわけだがが、第一次世界大戦にヒトラーが現れたようなことがフランスで起こらなかったという保障はない。それは議会政治の危機、軍国主義的な風潮の復活という現代の日本においても、十分な警鐘となっている。
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ノートの参照
第14章1節 ウ.フランス
書籍案内
ブゥランジェ将軍の悲劇表紙
大佛次郎
『ブゥランジェ将軍の悲劇』
朝日新聞社 大佛次郎ノンフィクション文庫 8)
初版 1935