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ドレフュス事件

19世紀末、フランス第三共和政下での反ユダヤ主義による陰謀事件。

 1894年、第三共和政のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイの嫌疑をかけられ、本人は無罪を訴えたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となった。この裁判をめぐってフランスは国論が二分され、判決にユダヤ人に対する差別があるとして再審を求める共和派と、判決を支持する軍部・教会などの王党派が激しく議論を戦わした。中でも作家エミール=ゾラが1898年に『余は弾劾す』を発表してドレフュスを弁護した。ようやく1899年に再審となったが、再び有罪を宣告され、大統領特赦で出獄した。結局、1906年、ドレフュスは無罪となった。19世紀末のフランスにおいても、反ユダヤ主義が根強く存在することを示した事件でもあった。 

ドレフュス事件の意義

 ドレフュス事件は、フランスの第3共和政の共和政治を脅かす事件であった。当時フランスは、1889年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件などが続き、共和政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていた。そのような中で軍部によって無実のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして、正義と自由、平等が踏みにじられたのがドレフュス事件であった。10年以上の年月を要したがドレフュスの無罪は確定し、フランスの共和政は守られることとなった。

ユダヤ人問題とドレフュス事件の影響

 根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪があった。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代に至るまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていた。フランス革命よって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されたが、民衆の中の差別感は残っていた。普仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第3共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていた。特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもあった。しかし都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていた。ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーであった。このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以て感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルであった。かれはこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナをめざすシオニズム運動を開始する。
ドレフュス事件
1895年1月5日 軍刀をへし折られるドレフュス(左側に立つ人物)

事件の経緯

 1894年(日清戦争が起こった年)夏、フランス参謀本部の諜報部がドイツ大使館に送り込んでいたスパイが盗み出したメモの中に、フランス陸軍の誰かが書いたと思われる機密情報があった。驚いた参謀本部は直ちにその犯人捜しに乗りだしたところ、参謀本部付きの砲兵大尉アルフレッド=ドレフュスが浮かんだ。疑われた理由は彼がアルザス生まれのユダヤ系であったことだった。参謀たちのユダヤ人に対する軽蔑がその判断を濁らせた。ひそかにドレフュス大尉の筆跡を取り寄せてメモと比較したところ参謀たちは一致していると断定した。10月13日ドレフュス大尉は参謀本部に出頭したところを反逆罪で逮捕された。
 大尉は強く否定したが、事件をスクープした反ユダヤ系の新聞が「ユダヤ人の売国奴、逮捕される!」と報道した。12月の裁判で有罪が確定し、ドレフュスの軍籍は剥奪されることとなり、翌95年年1月5日、練兵場で徽章ははぎ取られ、軍刀はへし折られた。見守る群衆はドレフュスに「ユダヤ人!売国奴!殺せ独探!」と罵声を浴びせた。ドレフュスは終身刑として南アメリカのフランス領ギアナ沖合にある「悪魔島」に送られた。
 これで一件落着と思われたが、新たに参謀本部情報部長となったピカール中佐は別なルートからエステラージーという少佐がドイツ大使館の諜報員と連絡を取っていることを嗅ぎ出した。ピカールは密かに再調査を進め、その筆跡を入手して以前の鑑定人に見せたところ、メモと同一だと答えた。ドレフュスの無実を確信したピカールはその結果を上層部にあげたが、陸軍大臣以下の軍首脳は軍事裁判の権威を守るためとしてそれを抑えつけてしまった。
 一方、ドレフュスの妻のリュシーと弟はドレフュスの無罪を信じて奔走し、弁護士や政治家に訴えた。新聞の中でも「オーロール」が取り上げた。ピカール中佐は良心がいたたまれず、真相をドレフュスの弁護士に明かす。驚いた弁護士が再審を請求し、エステラージーも尋問されることとなったが、すでに国外に逃亡していた。こうして裁判は一般の関心をひくこととなり、新聞が両派の主張を載せ世論が二分されることとなった。
 共和主義と自由主義として知られるクレマンソーが主催する「オーロール」紙が、1898年1月13日に作家エミール=ゾラの署名でフォール大統領宛の公開書簡の形で「余は弾劾す(J'accuse!)」と題する記事を掲載した。それはドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判も真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものであった。右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、ゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまった。その裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったが、結果は反ドレフュスの世論が根強く、かえってゾラは有罪とされてしまった。ゾラは言論活動ができなくなることを避けて、ロンドンに亡命した。こうしてドレフュス事件は再び葬られた。
 しかしその後、ドレフュス有罪の証拠をねつ造した疑いのある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、再審の声が強まり、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われた結果、ドレフュスではなくエステラージーのものであることが明らかになった。1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻った。8月にレンヌで軍法会議の再審が開始され、やつれたドレフュスが出廷した。しかし、軍は94年の参謀本部の責任者メルシエ将軍が出廷し、上層部の謀議を否定した。その判決の日、ドレフュスの弁護士ラボリが暴漢に銃撃され大けがするという事件も起きる。
 結局、再審の判決も2対5で有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決であった。ドレフュスは再び絶望の淵に沈み、収監された。しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、大統領特赦が出されることになった。9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄した。彼はなおも自分が潔白であることを訴えると声明したが、世間はもはやドレフュス個人への関心は薄れ、「国家における軍部の地位の問題と書き替えられ、政教分離の問題となって、近代の政治の重要な宿題となった。問題がここまで広がってくるとドレフュスの名は、海にそそいでから川が見えなくなるように、人の注意から消えたのである。」ようやく1906年になって無罪であったことの判決が出され、軍籍に戻り、少佐に昇進したうえで、09年6月に引退した。第一次世界大戦が起きると砲兵中佐としてヴェルダン戦に参加したという。<以上、大佛次郎『ドレフュス事件』1930 現在は大佛次郎ノンフィクション全集7に収録(朝日新聞社刊)による。>
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ノートの参照
第14章1節 ウ.フランス
書籍案内
ドレフュス事件表紙
大佛次郎
『ドレフュス事件・詩人・地霊』
朝日新聞社 大佛次郎ノンフィクション文庫 7
初版 1930