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ローデシア

イギリスのセシル=ローズが主導して19世紀末に侵出した南アフリカの地域を1911年に植民地ローデシアとした。その後白人支配が続いたが、第二次世界大戦後の1965年、北ローデシアで黒人の運動によりザンビアとマラウィが独立。南ローデシアでは白人がローデシアとしてイギリスから独立したが、黒人の反発が強まって1980年に白人政府が倒されジンバブエ共和国となった。

 19世紀後半、イギリス帝国主義の時代に、セシル=ローズが主導して南アフリカ内陸部、リンポポ川以北に建設した植民地。ローズは現地人の王から鉱山採掘権を獲得し、1889年、イギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立、90~94年に現地民に対する征服を進めた。1894年からローズの経営する「イギリス南アフリカ会社」が統治しする植民地としてイギリス領に編入された。19世紀後半の帝国主義諸国によるアフリカ分割の典型例である。

黒人の抵抗

 東南アフリカのザンベジ川とリンポポ川に挟まれた内陸は、かつて14世紀を頂点にグレートジンバブエに豊かな石造建築群を中心とした文化が栄え、15世紀以降はモノモタパ王国が栄え、ポルトガルとも盛んに交易していた。しかし、17世紀以降はポルトガルは後退したが、分裂・衰退が進んでいた。現地の黒人はショナ人とンデベレ人の二つの大きくわかれ、セシル=ローズは前者をマショナランド、後者をマタベランドとして統治した。白人の集中的な入植に対してショナ人とンデベレ人の農民は危機感を強め、1896年にチムレンガと呼ばれる武装抵抗を開始した。スキピロと呼ばれる霊媒師(伝統的預言者)は神託によって神が白人の銃弾を無害な水に変える力をもつと告げ、死を恐れず闘うことを呼びかけた。セシル=ローズはこの勢いを恐れ、ンデベレ人の主張に土地を与えるなどの懐柔を行って分断し、マショナランドのショナ人を孤立させ、ショナ人のスキピロ二人を捕らえて処刑し、1897年に沈静化させた。このような霊媒師に指導されるという形態をとった黒人の抵抗運動は、第二次世界大戦後のローデシアの白人政権による人種差別政策に対する闘いでも見られ、黒人国家ジンバブエ共和国の原動力となっていく。また、1905年からドイツ領のタンザニアで起こったマジマジ反乱も同じような霊媒師が大きな役割を果たした反乱であった。<宮本正興+松田素二編『新書アフリカ史改訂版』2018  講談社現代新書 p.442-444>

ローデシア

 1911年にローズの名を冠してローデシアと命名された。イギリス南アフリカ会社が統治権を放棄したことにより、1923年に南ローデシアは自治植民地に、24年に北ローデシアはイギリス直轄植民地となった。南北の境界線はザンベジ川とされた。

ローデシアの独立宣言

 ローデシアはその後もイギリスの植民地として続き、白人支配が強固であったため、アフリカ独立運動の高揚期であったアフリカの年といわれた1960年には、独立を達成することは出来なかった。その後、1964年に北ローデシアで独立運動が激化し、ザンビア共和国とマラウイ共和国が独立したが、南ローデシアはイギリス支配が継続された。しかし現地の白人少数支配者は、本国の妥協的姿勢に反発して、1965年に一方的に南ローデシアを「ローデシア」として独立宣言した。これは、イギリス本国に反発した植民地白人が出した独立宣言で、1776年のアメリカ独立宣言以来のことだった。

ジンバブエ共和国の成立

 独立後のローデシアは少数の白人が大多数の黒人を支配し、南ア連邦と同じアパルトヘイト政策をとり、国際的にも批判を浴び国際連合の経済制裁を受けた。70年代から黒人の反政府運動が激化し、3万人に上る死者を出した上で自由選挙が実施され、多数を占める黒人の政権が誕生、1980年4月18日に白人名に由来するローデシアという名称を棄て、ジンバブエ遺跡の「石の家」を意味する「ジンバブエ共和国」に国名を変えた。 → ジンバブエ共和国
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