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ザンビア

アフリカ南部の内陸国で、旧イギリス領の北ローデシアが1964年に独立した。豊富な銅の産出国である。

 ザンビアはアフリカ南部、ザンベジ川上流の北岸に広がる内陸国。バントゥー系の黒人を主とした共和国となっている。内陸にあったためヨーロッパ人の進出は遅れたが、1855年、イギリス人宣教師のリヴィングストンが探検、ザンベジ川の大きな瀑布を発見し、ヴィクトリア女王に因んでヴィクトリア滝を名付けられた。

イギリスの植民地となる

 19世紀後半になると、まず西側のアンゴラと東側のモザンビークを領有したポルトガルが、その領植民地を結ぶアフリカ横断をめざし、進出した。しかし、ケープ植民地を拠点に北上し、アフリカ南部の内陸に勢力をのばそうとするイギリスと対立することとなった。イギリスは、1889年にセシル=ローズが「イギリス南アフリカ会社」を設立、1890年にポルトガル軍を撤退させ、1891~94年にかけて「開拓」を進めたが、それは事実上の「征服活動」であり、1894年には会社は統治権を認められた。セシル=ローズは96年に現地政府首相の座を退いたが、イギリスは南ア戦争の勝利の後、1911年にセシル=ローズの名からローデシアと名付けて植民地支配を完成させた。ザンベジ川の北側のこの地域は北ローデシア、南は南ローデシアとされ、いずれもイギリス人入植者による植民地支配が続くこととなった。

独立国家へ


ザンビア共和国国旗
 1924年にイギリス直轄領とされると、その翌25年に北ローデシアで豊富な銅鉱石(カッパーベルト)が見つかり、イギリスにとって重要な資源として南ローデシア、南アフリカ経由で本国にもたらされるようになった。第二次世界大戦後の1953年からはローデシア=ニアサランド連邦(中央アフリカ連邦ともいわれた)に組み込まれた。
 第2次世界大戦後に、アフリカにも民族自立の動きが波及し、1960年のアフリカの年に多くのアフリカ民族が独立を達成したが、ローデシアは強固な植民地支配が続き、独立はできなかった。ようやく1964年に、現地政府の黒人カウンダ首相が主導して、北ローデシアがザンビアとして独立、カウンダが初代大統領となった。なお、このとき隣接するニアサランドは、マラウイとして独立した。いずれもイギリス連邦にはとどまった。

タンザン鉄道の建設

 ザンビアの主要産物である銅は、南ローデシアを経由して南アフリカから輸出されていたが、南ローデシアの白人支配者が1965年にローデシアとしてイギリスからの一方的な独立を宣言し、南アフリカ連邦と同じように徹底した黒人分離政策であるアパルトヘイトをかかげたため、国際連合は経済制裁の措置を執った。ザンビアも経済制裁に同調したため、ローデシアに銅鉱石を輸出することができなくなり、経済的な打撃を間接的に受け苦境に立たされた。
 その時、ザンビアの北東に隣接するタンザニアのニエレレ大統領は社会主義改革を目指して中華人民共和国に接近していた。中国政府はニエレレ大統領にザンビアとの間の鉄道建設を提案、資金と労働力の支援を申し出ると、ザンビアのカウンダ首相も同調、中国・タンザニア・ザンビア三国で協定が成立し、1970年に鉄道建設工事が始まった。こうしてザンビアの首都ムサカと、タンザニアの首都ダルエスサラームを結ぶ鉄道は、1975年に完成してタンザン鉄道と名付けられた。タンザン鉄道は内陸国ザンビアがローデシアを経由せずに物品をインド洋に面した港に運ぶことを可能にし、同時にアフリカ内陸部に務克重要な鉄道路線となった。
 中国はタンザン鉄道建設に巨額の借款をザンビア・タンザニアに与え、多くの中国人労働者が建設に参加、中国のアフリカ経済への影響力を強める契機となった。

社会主義路線から転換

 カウンダ大統領はアフリカ統一機構(OAU)や非同盟諸国首脳会議のメンバーとして活躍し、社会主義路線を強めて企業の国有化などを進めるとともに独立民族統一党による一党独裁をしいた。この中国の支援による社会主義路線は、銅の最大の輸出国として成り立っていたが、1970年代後半の中国の自由主義経済への転換、そして銅価格の暴落などによって揺らぎ始めた。一党独裁と中国による経済支配に対する反発が強まり、1991年の選挙で複数政党制と中国排除を主張する政党が勝って、カウンダ独裁体制は終わりを告げた。
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第16章3節 ア.アフリカ諸国の独立