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アルヘシラス会議

第1次モロッコ事件を受け1906年に開催されたモロッコ問題に関する国際会議。

1906年、モロッコに野心を持つイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなどの帝国主義諸国が、独仏のモロッコ事件での衝突の回避を名目に権益を調整しあった国際会議である。アルヘシラスはスペインのジブラルタル海峡近くの港。
 1905年にフランスのモロッコ進出に抗議したドイツのヴィルヘルム2世が、自ら艦隊を率いてモロッコのタンジールに上陸し、フランスに抗議した第1次モロッコ事件(タンジール事件)の後で、モロッコ問題を協議するためにアルヘシラスで国際会議が開催された。モロッコ王国も参加した会議では、モロッコ王国の独立及び機会均等・門戸開放の原則が確認され、表面的にはドイツの主張は認められた。またドイツの主張に添って参加国が平等に出資してモロッコ国立銀行を設立することも決められた。しかし、イギリスを始め、ロシア、イタリア、オーストリア=ハンガリーなど有力国は大筋においてフランスを支援して、モロッコ財政へのフランスの管理権、フランスとスペインの警察権などが認められたので、ドイツは実質的には主張を貫徹できず孤立感を深めた。

モロッコの反発

(引用)モロッコに利害乃至は関心を持つ英仏独伊西(イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・スペイン)は1906年アルケシラス(アルヘシラス)で会商し(1月7日~4月7日)、抜けがけの利益獲得を禁ずる機会均等、門戸開放の原則を決定し、開港地に警察を組織して治安を維持することにした。しかしこれはモロッコの民心を刺激し、反キリスト教徒の攘夷運動を発生させ、翌年にはマラケッシュで仏人医師モーシャンが殺害され、フランスはリオテーにモロッコ北部ウジュダを保障占領させた。7月30日カザ・ブランカでは土地の聖者の墓の近くをフランス側のバラスト車が穢したという理由から民衆の暴動が起こって仏西伊人各三人計九人が殺害され、フランスは一万五千の兵を派遣した。<山田吉彦『モロッコ』1951 岩波新書 p.43>
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第14章2節 ア.アフリカの植民地化