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三国同盟

1882年に成立したドイツ・オーストリア・イタリア三国の秘密軍事同盟。イタリアは離脱したがドイツ・オーストリアが第一次世界大戦の同盟国側陣営を形成した。

 露土戦争(1877年)の後のバルカン問題を協議するベルリン会議(78年)で、オーストリアとロシアの対立が表面化し、1879年にロシアが三帝同盟から離脱し、事実上破産したあと、ドイツ帝国ビスマルクオーストリア=ハンガリー帝国との間に同年、独墺同盟を結んだ。
 一方、フランスは、ベルリン会議の結果としてベルリン条約で、イギリスのエジプト進出を認める代わりに、チュニス進出を認めてもらい、1881年出兵して保護領とした。イタリアは自国の対岸のチュニスにフランスが進出したことに大きく刺激され、それまで「未回収のイタリア」問題で敵対していたオーストリア=ハンガリー帝国と近づいた。これによって1882年、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟が形成された。
 ビスマルクは、ロシアの脅威をなくすことにも熱心で、前年81年に三帝同盟を復活させ、新三帝同盟を結成していたので、この二重の同盟関係でドイツの安全保障とするという構想であったが、再びバルカンでブルガリア問題が起こって1887年、新三帝同盟が消滅したたため、独露間で再保障条約が締結された。
 こうしてビスマルクは一貫してロシアとの提携を軸に巧妙なビスマルク外交を展開したが、新皇帝ヴィルヘルム2世によって1890年にビスマルクが辞任に追い込まれると、独露再保障条約は延長されず、ロシアはフランスとの提携を強めることとなる。また、20世紀にはいるとイギリスはロシア及びフランスとの相互の勢力圏を認める世界分割協定を重ねて個別に協商関係を結び、三国協商が成立する。この二大陣営のバランスによって勢力均衡を図るという20世紀初頭の国際関係が成立したが、やがてバルカンにおける対立から第一次世界大戦へと転化していくこととなった。同じゲルマン人国家であり、パン=ゲルマン主義につドイツとオーストリアは同盟国として結束したが、イタリアは、「未回収のイタリア」問題でオーストリアと対立していたのでイギリスとロンドン秘密条約を結び、三国同盟を離脱して連合国(協商国)に立つことになる。
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ノートの参照
第12章2節 キ.ドイツ帝国とビスマルク外交