印刷 | 通常画面に戻る |

ヴィルヘルム2世

第一次世界大戦時のドイツ帝国皇帝。帝国主義的膨張策である世界政策を展開して世界大戦の要因をつくり、1918年、敗戦によって退位した。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世 在位1888-1918
 ドイツ帝国ホーエンツォレルン家第3代の皇帝。ヴィルヘルム1世の孫で母はイギリスのヴィクトリア女王の娘。1888年、29歳で即位した。もともとそりが合わなかったビスマルクを辞任させ、1890年に親政を開始して独自色をうち出した。まず、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法の延長を認めず、廃止した。 → ドイツ
 外交政策ではロシアとの独露再保障条約の更新も拒否した。こうして、ドイツはそれまでのビスマルク外交の基本姿勢である、フランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、帝国主義の世界分割競争に積極的に関わるようになった。  アジアにおいては中国進出を開始し、1895年にはロシア・フランスと共に日本に対する三国干渉を行って遼東半島を還付させ、その報償として1898年に膠州湾の租借を認めさせ、積極的に中国分割に加わった。さらにドイツ勢力圏である山東半島で義和団事件が起きると列強と共に出兵した。また、アジアでの日本の勢力拡大、アメリカでの日本人移民の増大などに対しては黄禍論を唱え、反発を露わにした。 

ヴィルヘルム2世の「新航路」

 ヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策として展開することとなるが、それは彼自身が、自分の政策は「航路は従来のまま、全速前進」と述べたことをもじって「新航路」といわれている。まず海軍の大拡張を行ってイギリスと対抗して建艦競争を展開した。またバルカン方面への進出(パン=ゲルマン主義)を行ってロシアとの対立を深めることとなった。またフランスとの対立も深め、そのモロッコへの進出を阻止する口実で、2度に渡るモロッコ事件第1次タンジール事件第2次アガディール事件)を引き起こした。しかし、ドイツの侵出を警戒したイギリスがフランスと提携したためドイツは孤立し、モロッコ進出には失敗した。

3B政策

 このヴィルヘルム2世の世界政策は、海軍力を増強してイギリスと対抗するだけでなく、新たな帝国主義政策につながった。それが、ベルリン→イスタンブル(ビザンティウム)→バグダードを結ぶ「バクダード鉄道」建設という構想であり、それは3B政策と言われた。これはドイツの勢力がバルカン半島から中東(西アジア)に拡大されることになった。このようなヴィルヘルム2世の帝国主義政策は、イギリスの3C政策と厳しく対立することとなり、さらにフランスとのアルザスロレーヌをめぐる国境問題、ロシアとのバルカン問題などでの対立を深め、第一次世界大戦を引き起こす原因を作った。

Episode デーリー・テレグラフ事件

 1908年10月28日付のロンドンの新聞デーリー・テレグラフにヴィルヘルム2世の会見記が掲載された。皇帝はこの会見記で、ブール戦争の時、露仏両国から干渉しようと持ちかけられたが断ったとか、同じくブール戦争の時、私が作戦計画をイギリスに教えたのだとか、ドイツが行っている艦隊建設は日本を仮想敵国としたものだとか発言し、それらがことごとく記事になった。皇帝は建艦競争で気まずくなったイギリスとの関係を修復するつもりだったらしいが、これらの発言はドイツ国内でも国外でもひんしゅくを買い、皇帝は当時の宰相ビューローに対して、憲法を尊重して発言を慎む旨を誓約させられた。

第一次世界大戦 亡命と退位

 1914年7月、ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦への突入を承認、戦争が始まった。しかしその後半にはドイツの戦争の主導権は参謀本部に手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。1918年にアメリカ大統領ウィルソンの休戦提案(14箇条)が発表されると、それ以前から急速に陸軍の戦意が落ちていたが、さらに11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発すると、ヒンデンブルクとルーデンドルフらは政権を社会民主党の穏健派エーベルトにまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするためにはヴィルヘルム2世の退位と亡命が必要と考え、皇帝に進言した。ヴィルヘルム2世は何の抵抗もせずそれを受け容れ、11月9日のううちにオランダに亡命した。11月末には正式に退位し、ここにホーエンツォレルン朝は終わりを告げた。なお、バイエルンやザクセンなど、ドイツ帝国内の国王たちも、前後して退位し、ドイツの君主政は終わりを告げた。

Episode ヴィルヘルム2世の人物像

 ヴィルヘルム2世は単純な好戦的人物と思われがちであり、彼の個人的資質に第一次世界大戦の原因の一つとする見方も強いが、次のような人物評があることを紹介しておこう。
(引用)(第1次モロッコ事件の時)結局、カイザー(ヴィルヘルム2世)は危機をまったく望まなかったし、ましてや戦争など望んでもいなかった。ヴィルヘルム2世は、ときおり口に出して不愉快で高飛車な発言を多くしたが、それとは逆に、彼は、本当は繊細で神経質、かつ平和愛好的な性格だった。彼はタンジールに派遣されるのをたいそういやがっていたし、その後そこから生じた危機のなかで、さらに思い切った行動に出るのにいつも尻込みしていたのだった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.95>
 同書によると、モロッコ事件を対フランス戦争のチャンスだととらえていたのは、ドイツ参謀本部の参謀長シュリーフェンであった。彼はすでに、ロシアの戦備が整わないうちにフランスに一撃を加え、反転してロシアにあたれば、東西二面作戦も可能であるという「シュリーフェン計画」を立案していた。

ヴィルヘルム2世の戦争責任問題

 第一次世界大戦の休戦に伴い、連合国側には世界戦争の責任はドイツにあるとする見方が強まった。またドイツ軍の中立国ベルギーに対する侵攻とルシタニア号事件のような軍事行動は、戦争犯罪に当たるという声も上がり、その最終責任は皇帝ヴィルヘルム2世にあるとする国際世論も無視できないようになった。ヴェルサイユ条約の第226条以降はヴィルヘルム2世を国際司法裁判所に召喚することとなった。しかし、すでにヴィルヘルムは退位し、オランダに亡命した。オランダは、政治的亡命者を引き渡すことは人道上できないとしてヴィルヘルムの身柄引き渡しを拒否、また当時は戦争責任を判断する明確は国際法が存在しなかったことから、ヴィルヘルム裁判は結局実施されなかった。そして国際世論も戦争責任の追及よりも賠償金の額や領土の獲得へと移っていった。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.60>