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アドワの戦い

1896年、エチオピアを侵略したイタリア軍がエチオピア軍に敗れた戦い。

 1896年、イタリアエチオピアを侵略した帝国主義戦争である第1次イタリア=エチオピア戦争(単にエチオピア戦争とも言う)で起こった、イタリア軍がエチオピア軍に敗れた戦い。 → イタリアのアフリカ侵出
 エチオピアのメネリク2世は近代化政策をすすめ、イタリアとのウッチャリ条約(1889年)で武器供与をうけることとしたが、その代償として保護権を認めた。次いでフランスが接近し、1893年イタリアとの条約を廃棄した。メネリクの違約に報復し、一挙にエチオピア制圧を狙ったイタリアは1896年3月、大軍を以てエリトリアから侵入したが、北エチオピアのアドワで、メネリクのエチオピア軍に敗れ、6000名以上の死傷者を出した(第1次イタリア=エチオピア戦争)。エチオピア軍は大量のフランス軍からの武器の支援を受けていた。

イタリアの好戦主義

 イタリア王国は統一後も社会改革の遅れやバチカンとの対立などがあり、産業も未発展であったことから、19世紀末に首相となったクリスピは、強力な政治権力の樹立と国民の愛国心の高揚をはかってリソルジメントの栄光を再現しようとした。その好戦主義といわれる外交にはフランスへの敵意をあおってドイツ、オーストリアとの三国同盟の結成に動いたことと、北アフリカ・エチオピアへの侵略があげられる。しかし「クリスピの激しい執念は悲惨な結果を招いた。1896年3月1日、アドゥアの戦いで、5000人のイタリア軍兵士が戦死し、イタリアはいかなる植民地主義国家も経験しなかったほどの無残な敗北を味わったのである。」<ダカン『イタリアの歴史』2002 ケンブリッジ版世界各国史 p.236>

その後のエチオピア侵略

 エチオピアはこの勝利によって独立を維持し、国際的に承認されてエチオピア帝国となった。その後はフランス・イタリア・イギリス三国が鉄道敷設権の分割協定を結ぶに止まり、エチオピアの独立は維持された。しかしファシスト党のムッソリーニ政権下のイタリアは、1935~36年に再びエチオピアに軍事進出(第2次イタリア=エチオピア戦争)し、エチオピア併合を強行した。
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ノートの参照
第14章2節 ア.アフリカの植民地化