印刷 | 通常画面に戻る |

エリトリア

アフリカの北東部、紅海に面し、エチオピア・スーダンに隣接する地域。19世紀末イタリアが進出して領有、大戦後にエチオピアに併合され、1973年に分離独立運動が始まり、93年に独立した。

紅海に面した地方

エリトリア地図

現在のエリトリア Yahoo Map

 アフリカの北東部、紅海に面し、かつてはエチオピアの一部とされた。また、西はスーダンに接し、その北のナイル上流のエジプト文明もこの地に及んだ。紀元前後からアクスム王国が現在のエチオピアも含めて支配し、アラビア半島やナイル川流域のエジプトとの交易を行い、繁栄した。南はかつてソマリランドの一部であったジブチが独立している。
 7世紀にアラビア半島にイスラーム教が興ると、紅海を隔てたこの地にもすぐに広がり、アラブ人の活動も活発になった。アラブとの関係も深くなるとともに、その影響を強く受けるようになったが、エジプトのコプト教会の影響を受けた東方系のキリスト教が広がっていた内陸のエチオピアにはイスラーム教は浸透しなかった。イスラーム教が優勢になったエリトリアと、キリスト教の優勢なエチオピアでは人種的にも異なることから、一体感は稀薄であった。16世紀にはオスマン帝国の支配が海岸部に及んだが、内陸には幾つかの土豪国に分かれている状態が続いた。

スエズ運河の開通

 19世紀にはエジプトのムハンマド=アリー朝の勢力が及んだが、1888年のマフディーの反乱でエジプト支配は後退し、代わってイタリアがこの地に進出してきた。すでに、1869年、スエズ運河が開通して、ヨーロッパ列強の船舶が直接、紅海を航行するようになったことで、にわかに列強の関心がエチオピアとアフリカの角と言われたソマリランドに寄せられることになった。19世紀末~20世紀初めに結局、エリトリアはイタリアが、その南のジブチはフランスが、ソマリランドは北をイギリス、南をイタリアが分割支配することになった。

イタリアによる征服

 19世紀後半に帝国主義列強による植民地獲得競走がアフリカで展開され、アフリカ分割が進んだ。アフリカ東北部のエチオピアに早くから関心を寄せたイタリアは、1881年に紅海の出口に近いマッサブに居留地を設け、この地の殖民化を開始、1884~85年のアフリカ分割に関するベルリン会議に参加して領有を認められた。1889年にはイタリアはエチオピアとウッチャリ条約を締結して割譲に合意させ、翌1890年1月1日、イタリア王はマッサワ港を首都とエリトリア植民地を宣言した。<エリトリア大使館 ホームページ エリトリアの歴史 による>
エリトリアという地名 イタリアは領有することとなったこの地を、紅海の「赤」を意味するラテン語エリュトラウムからとってエリトリアと呼んだ。この名は1世紀のローマの『エリュトゥラー海案内記』でも使われた古い地名であり、つまりエリトリアは「紅海」に因んでイタリアが付けた地名なのである。

イタリアによる植民地支配

 イタリアはさらにエチオピア本土征服を目指したが、1896年のアドワの戦いでフランスなどに支援されたエチオピア軍に敗れ失敗した(第1次イタリア=エチオピア戦争)。その後、イタリアに成立したファシズムのムッソリーニ政権は1935年、再びエチオピア侵攻を実行(第2次イタリア=エチオピア戦争)し、36年にエチオピア併合を達成した。イタリアはイギリス領ソマリランドも征服し、イタリア領東アフリカとして植民地支配を成立させ、エリトリアもそれに組み込まれた。現在のエリトリアの首都アスマラにはイタリア人が多数入植し、ムッソリーニは「第二のローマ」として近代的な都市を建設した。今もマスカラにはイタリア風アールデコ調の建物が多く残されている。

エチオピアによる併合

 第二次世界大戦が進む中、1941年にイギリス軍が進駐してイタリア軍を駆逐し、イギリスの保護領とされた。大戦後に国際連合の委任統治とされてからその帰属をめぐって審議された。イギリスはエトルリアをキリスト教地域とイスラーム教地域に分けて前者をエチオピアに、後者をスーダンに与えるという分割案を提出したが、反対が多く実現しなかった。結局、国連でエチオピアとエリトリアを連邦国家とする決議案が可決され、1952年にエリトリアはエチオピアとの連邦国家として一旦独立した。しかし、エチオピアの皇帝ハイレ=セラシエ1世は、圧倒的な軍事的優位の背後にあるアメリカの要請もあり、紅海海岸を軍事的に自由に使用するため、エリトリアの併合を狙い、その自治をことごとく無視した。やむなくエリトリア議会が分離を議決すると、1962年11月、エチオピア軍隊がアスマラを占領し議会を解散させ、エリトリアを一方的に併合した。こうしてこの地はエリトリア州というエチオピアの一部になった。

エリトリア独立運動

 形だけの独立だった1952年から、真の独立をめざすエリトリアの運動が始まった。国際社会はエチオピアについてはイタリアの支配から立ち上がったことで関心が強く、よく知られていたが、そのエチオピアがエリトリアを一方的に併合したことに対しては、国際的な批判はまったく起きなかった、というより知られることはなかった。日本でも裸足の英雄アベベの活躍でエチオピアは馴染みが深かったが、エリトリアはその一部に過ぎないという思い込みがほとんどだった。
 1960年、カイロに亡命していた人々によってエリトリア解放戦線(ELF)が結成され、彼らは1961年からエチオピアからの分離独立を求める武装闘争を開始した。ELFはゲリラ活動を展開したものの、戦略的見通しを持たず、内部に民族対立、派閥対立を含んでいたためエチオピア軍の反撃に抵抗できず、次第に行き詰まった。エチオピア軍による民衆虐殺など不法行為が続く中、70年代にエリトリア人民解放戦線(EPLF)が新たな闘争の中心となった。EPLFは国家の独立とともに社会的平等の実現などの変革プランを掲げ、ELFと対立しながら民衆の支持を受けていった。

エチオピア軍事政権との闘争

 一方、エチオピアのハイレ=セラシエ皇帝の帝政は次第に行き詰まり、1974年9月に民衆のデモをきっかけに軍の若手将校(軍事委員会デルグ)が皇帝を退位させてエチオピア革命が起こった。帝政を終わらせたメンギスツ政権はマルクス=レーニン主義を掲げて社会主義改革を一気に進めようとし、ソ連の強い支援を受けた。1877年、軍事独裁政権化したメンギスツは、ソ連製の高度な武器、ソ連将校団の援助も受けてエリトリア独立運動を進めるエリトリア解放戦線の壊滅に乗りだし、激しい戦闘が繰り返された。それに対してエリトリア独立運動はアメリカやアラブ諸国、それに加えて中ソ対立でソ連を批判していた中国に支援されるという代理戦争の様相を呈していった。しかし、エチオピア軍の軍事的な優位が続き、エリトリア側はEPLFとELFなどの対立などの内戦状態もあったため、主要都市をエチオピアに抑えられ、苦戦が続いた。

エチオピアからの分離独立

 1991年、ソ連邦の崩壊が、この情勢を一変させた。後ろ盾を失ったメンギスツ政権は一挙に追いこまれ、エリトリア人民解放戦線はエチオピアの反政府勢力とともにエチオピアの首都アジスアベバを占領、エチオピアの軍事政権を崩壊させた。エリトリアはただちに独立を宣言、この事実上の独立を勝ち取った1991年は、武装したエリトリア解放戦線による独立運動の最初の銃弾が放たれた1961年9月1日から30年が経過していた。
 1993年5月にはエチオピアで国連監視下での国民投票が行われ、エリトリアの分離独立は圧倒的多数の賛成によって承認された。ようやく独立国として国際的にも認知されたエリトリアは同年、ただちに国際連合アフリカ連合への加盟も果たした。1994年、エリトリア人民解放戦線は、解放を実現したので、組織の名称を民主正義人民戦線(PFDJ)と改称した。1997年には新憲法が制定され、新たな国造りが進められている。 → エリトリア大使館ホームページ 独立闘争写真集
エリトリア国旗

エリトリア国旗

エリトリアの国旗 独立を記念して制定されたエリトリア国旗(右)には左に二本のオリーブの木で円をつくっており、そこには15枚ずつ、計30枚の葉が描かれている。それは、独立運動が30年かかったことに因んでいるという。 → エリトリア大使館公式ホームページ 国情報による。

軍事独裁政権と新たな国交紛争

 政権を握った民主正義人民戦線(PFDJ)のイサイアス=アフェウェルキ大統領は、EFLに参加していた時代に中国で軍事訓練を受けた経験があり、中国共産党の強い影響を受けていると見られている。現在も一党独裁体制をとっており、その政治手法は反政府活動に対する苛酷な弾圧など非民主的な独裁政権と批判されている。この政権を支援している北朝鮮とともに、国際社会では同じような独裁政権とみなされて、国際的には孤立している。
エチオピアとの国境紛争 またエリトリアの独立によって、紅海への出口を塞がれた格好となったエチオピアでは、依然としてエリトリアの分離独立に反対する力も強く、バドメ地区の帰属をめぐって国境紛争が持ち上がり、1998年に両国は戦争状態となった。2000年にアフリカ連合の調停によって講和が成立したが、その後もにらみ合いが続いていた。ようやく、2018年7月に関係正常化の合意文書を交わし終息に向かうこととなった。
印 刷
印刷画面へ