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エチオピア(1)

古代のエチオピア高原には、アクスム王国が栄え、キリスト教を受容し、コプト教会が成立した。

 アフリカ大陸の北東部のナイル川上流地帯に広がる広大なエチオピア高原(アビシニアともいう)は、紀元前後のアクスム王国以来、独自の文化を継承し、独立を維持(もちろん紆余曲折はあるが)し、現代まで続いている。伝説では「シバの女王の国」といわれ、アラビア半島との関係が強い。
 最初のアクスム王国を建国した人々も紅海をはさんだアラビア半島南部とから渡ってきたセム系民族とされる。紅海を利用したアラビアとの交易で繁栄し、プトレマイオス朝やローマ帝国とも交易を行った。3世紀にはローマ帝国の衰退に乗じて、紅海からインド洋に進出し、ビザンツ帝国やササン朝ペルシアとも盛んに交易を行った。
  彼らはアレキサンドリアで盛んだったキリスト教の単性説を受け入れ、コプト教会というキリスト教信仰をつづけた。
 7世紀以降はイスラーム帝国が成立しアラビアとの交易が途絶えて衰退し、スーダン方面からのイスラーム教の浸透が続いたが、エチオピア王国を存続させ、現在でも国民の半数はコプト教会キリスト教徒である。

Episode 「シバの女王の国」エチオピア

 「エチオピアは『シバの女王の国』と呼ばれてきた。伝説によると、紀元前10世紀、英明で名高いエルサレムのソロモン王のもとを訪れた南アラビアのシバ王国の美しい女王とのあいだにできた男子メネリクが、後にエチオピア王国を開いたとされる。これはあくまで伝説での話だが、こうした伝説が成立する背景として、古代エチオピアにおけるヘブライ文化(エチオピアにはファラシャと呼ばれるユダヤ教徒が存在してきた)の影響や紅海をはさんだ南アラビア文化との活発な地域交流が指摘できる。」<宮本正興/松田素二『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.158>

エチオピア(2)

19世紀末からイタリアによる併合までのエチオピアの情勢。

エチオピア(アビシニアともいう)は10世紀頃から封建的な小国家に分裂状態にあったが、1889年に有力な地方政権の一つであったメネリクがイタリアの助力で統一に成功した。しかし帝国主義列強の侵略を受け、北側の海岸部のエリトリアにはイタリアが進出し、東側のソマリランドはイギリス・イタリア・フランスによって分割されていた。イタリア・フランスはさらにその内陸部であるエチオピア進出を図り対立した。
 1896年、イタリアの侵入をアドワの戦い(第1次イタリア=エチオピア戦争)で破り独立を守った(フランスの軍事支援を受けた)。それによって国際的に承認され、エチオピア帝国は、1923年には国際連盟に加盟した。しかし、ムッソリーニのイタリアは再びエチオピアに侵攻(第2次イタリア=エチオピア戦争)して1936年にはエチオピアを併合してしまった。こうして1936~42年の間はイタリアに占領されることとなった。

エチオピア(3)

第二次世界大戦後、ハイレ=セラシエ皇帝の下で帝政が行われたが、1974年に社会主義政権が成立して、帝政は崩壊した。

 第二次世界大戦後はハイレ=セラシエ1世が近代化政策をとる。1962年、北東部のエリトリアの併合を強行、エリトリアでは分離独立運動が起こった。
 1974年には社会主義政権が成立して帝政が崩壊し、軍政が敷かれた。その後も政情不安と、東側のソマリアとの領土紛争などが続いている。首都アジスアベバ。

Episode エチオピアの英雄「裸足のアベベ」

 エチオピアというと、日本人にはいまだに「裸足のアベベ」こと、アベベ=ビキラを思い出す人が多いに違いない。アベベはローマ・オリンピックと東京・オリンピックのマラソンで二連覇したマラソンランナー。何といっても印象深いのはローマで、無名だったアベベが、裸足で走り優勝したときだった。世界中の人が驚いたが、特にエチオピアでは一躍国民の英雄になった。それは、かつてエチオピアに攻め込み、一時支配したイタリアの首都ローマで、エチオピア人が優勝したからであった。世界のマスコミはそんなことより、裸足だったことや高地人が優勝したことを騒ぎ立てた。裸足で走ったのは偶然靴が壊れ、新しいものを買うヒマがなかったかららしい。早速世界の運動靴メーカーがシューズの提供を申し出たそうだ。マラソンで高地トレーニングが取り入れられることになったきっかけもアベベの優勝だった。アベベは東京でも優勝して二連覇、他に誰もオリンピック二連覇はしていないし、オリンピック記録も破られていない。アベベはハイレ=セラシエ皇帝の親衛隊の兵士だったが、まもなく祖国エチオピアは内戦状態になり、彼は不遇のうち73年に41歳の若さで亡くなった。その翌年には皇帝もその位を追われることとなった。