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バルカン戦争(第1次・第2次)

バルカン戦争は、オスマン帝国の弱体化に乗じたバルカン諸国の領土拡張抗争。第1次は1912年のバルカン同盟諸国とオスマン帝国が戦い、第2次は1913年にブルガリアとセルビアなどが戦った。バルカン問題から起こった戦争であったが、第一次世界大戦の直接的誘因となった。

第1次バルカン戦争

 1912年春、アルバニアの反乱を契機に、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアバルカン同盟諸国がオスマン帝国(トルコ)に宣戦布告。その前年に、イタリア=トルコ戦争が起こり、イタリアがアフリカ北岸のトルコ領を侵略したことに刺激され、青年トルコ革命後のトルコの混乱に乗じて戦争を起こした。またオスマン帝国によるボスフォラス=ダーダネルス海峡封鎖を恐れるロシアがバルカン同盟諸国を応援した。戦闘はバルカン同盟側の勝利に終わり、翌13年5月に講和(ロンドン条約)が成立した。
戦後の領土分割(ロンドン条約)オスマン帝国はイスタンブルを除くヨーロッパ領土とクレタ島を失い、500年に及ぶバルカン半島全土支配が終わりを告げた。またアルバニアの独立が承認された。民族運動が遅れていたマケドニアはセルビア・ブルガリア・ギリシアの近隣三国によって分割され、それぞれの領土的野心の対象となってしまった。この戦争でブルガリアが勢力を伸ばし、戦後はセルビアと対立が生じ、ロシアもブルガリアを警戒するようになる。それがもとでバルカン同盟は崩壊して第2次バルカン戦争が勃発する。

第2次バルカン戦争

 第1次バルカン戦争の後、オスマン帝国領であったマケドニア地方は、セルビア・ブルガリア・ギリシアで分割することになったが、その分配をめぐって不満であったブルガリアが、1913年6月にセルビア・ギリシアに侵攻して戦争となった。ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがセルビア・ギリシア側についたためブルガリアの孤立した戦いとなった。エンヴェル=パシャの指揮するオスマン帝国軍が1ヶ月の戦闘でブルガリアを破り、戦争はブルガリアの敗北で終わり、8月にブカレスト講和条約が締結された。
ブルガリア領の縮小:ブカレスト講和条約でブルガリアは、エデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、南ドブロジャ(黒海沿岸)をルーマニアに、マケドニアの北部をセルビアに、マケドニア南部をギリシアに割譲した。またセルビアのコソヴォ支配は確定し、ギリシアはオスマン帝国からエーゲ海東岸の島々から獲得した。
 ここで領土を縮小したブルガリアはドイツ・オーストリア陣営に接近する。勝った側のセルビア、モンテネグロなども領土的不満を残し、第一次世界大戦でもバルカンでの対立はそのまま二つの陣営に分かれて戦うこととなる。
マケドニアの分割:このときセルビア・ブルガリア・ギリシアの三国によって分割されたのが、かつてのアレクサンドロスの故国マケドニアであった。そのうちセルビア領となったマケドニアは、ユーゴスラビア王国の一部となり、第二次世界大戦後の1945年にユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国となった。さらにユーゴスラヴィア連邦の崩壊によって1991年に独立した。しかし、現在のマケドニアは第2次バルカン戦争でギリシア領・ブルガリア領となった地域も併合したいと意欲を持っており、現在も紛争の火種となっている。
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ノートの参照
第14章2節 エ.列強の二極分化とバルカン危機