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ブルガール人/ブルガリア

トルコ系ブルガール人がスラヴ系と同化して、ドナウ下流右岸、バルカン東北部に国家を建設、9~10世紀には大帝国を築いた。

ブルガリア地図

ブルガリア Yphoo Map

 ブルガール人は、カフカス山脈の北からカスピ海にかけての草原地帯にいたトルコ民族系の遊牧民であったが、4世紀の後半、フン人に押される形で西に移動し、7世紀に黒海北岸に国家を建設した。さらにハザール人に追われてドナウ川を渡り、現在のブルガリアの地に進出、先住のスラヴ人(南スラヴ人)と同化しながら自らの国家ブルガリア帝国(王国)を形成した。
 トルコ民族は、もともとアルタイ山脈付近で遊牧生活を送っていたが、6世紀に突厥がユーラシア東西に及ぶ大帝国を建設した頃から西方にも進出し、7世紀には黒海北岸アゾフ海周辺にも遊牧国家を作った。その中の一部族のブルガール人は、ブルガロイとか、オノグル・ブルガールとも言われる。

(1)ブルガール国家の建設

ブルガール人の移動

 7世紀にクプラトという英雄のもとで統一され、しばしばビザンツ帝国領を侵犯し、ビザンツ側は非文明の夷狄として恐れた。彼らの首長はアジアのトルコ系やモンゴル系の遊牧民族と同じようにハンを称した。カスピ海北岸のハザール(同じくトルコ系の遊牧国家)の攻撃を受けて圧迫され民族移動を開始し、ドナウ川を越えて681年にブルガリア王国を建てた。このトルコ系民族が南スラヴ人と同化して、現在のブルガリアとなる。つまりブルガリア人はトルコ系をもとにして、南スラヴ人と同化して現在に至ったものと考えられる。
 またヴォルガ川中流に移動したブルガール人は東スラヴ人と同化しながら、キプチャク=ハン国の支配下に入り、次第に自立してカザン=ハン国などを樹立し、その子孫が現在のタタール人やバシキール人となった。<坂本勉『トルコ民族の世界史』慶応義塾大学出版会 p.29-31>

ヴォルガ=ブルガール王国

 ヴォルガ川中流に移住したトルコ系民族ブルガール人が7世紀に作った国をヴォルガ=ブルガール王国という。これは黒海北岸にいたブルガール人がハザールの攻撃を受けて西進したとき、その一部が分かれてこの地に逃れて建国した国である。この国はその頃ルーシが建国した北西のノヴゴロド国と併存していた。10世紀初めにアッバース朝からイスラームを受容し、1236年にバトゥの率いるモンゴル軍に征服されてキプチャク=ハン国の支配下にはいると、そのもとで自治が認められ、毛皮貿易などに従事した。
 この間トルコ系とモンゴル人の同化が進み、彼らがロシア人からタタール人と言われるようになった。14世紀末、ティムールに追われてヴォルガ右岸に逃れてカザンを根拠地とし、1438年に自立してカザン=ハン国となった。カザン=ハン国は1552年にモスクワ公国のイヴァン4世(雷帝)に征服されて滅亡、以後はこの地域のロシア化が進む。ロシア国家を形成する民族や文化の中に、トルコ系民族が存在していることに注意しておこう。現在もその子孫はタタール人、バシキール人として自治を認められている。なお、ヴォルガはトルコ語で「川」を意味するという。

(2)ブルガリア帝国

7世紀に有力となったブルガール人の国家。ビザンチン帝国と抗争し、1018年、ビザンツ帝国に併合された後、12世紀に再興したが、13世紀にはモンゴルの侵攻を受けた。14世紀末にはオスマン帝国に征服され、滅亡した。

ブルガリア帝国

 トルコ系のブルガール人と南スラヴ人が同化して成立したブルガリア王国(新課程の教科書山川詳説世界史では、第1次・第2次とも「ブルガリア帝国」とされているが一般には「王国」とされることが多い)は、8世紀にはビザンツ帝国と戦うまでに強大になった。その過程でブルガリア王国はスラヴ人の国家となったといえる。
 この第1次ブルガリア王国(681年から1018年まで)は11世紀初めにビザンツ帝国に併合されて滅亡。続いてビザンツ帝国の衰退に乗じて12世紀の終わりに第2次ブルガリア王国(1187年から1396年の間)を立てるが、13世紀にはモンゴル帝国の侵入を受けて衰え、次いで14世紀末にはオスマン帝国の支配を受けることになる。

第1次ブルガリア帝国

ブルガリア帝国

第1次ブルガリア帝国(10世紀初) 濃い部分が現在のブルガリア
都①プリスカ ②プレスラフ ③タルノヴォ ④セルディカ(現ソフィア)
図説バルカンの歴史p.24をもとに作図

 第1次ブルガリア帝国はブルガール人が、アスパルフ=ハンに率いられてビザンツ帝国領のドナウ川南岸のバルカン半島北東部に侵入し、その地のスラヴ系住民と結んでビザンツ軍を破り、681年にビザンツ皇帝と和平条約を締結して、建国した。都ははじめプリスカにおかれ、後にプレスラフに遷った。ブルガリアが大国となったのは9世紀のボリス1世からシメオン1世の時で、キリスト教(ギリシア正教)を取り入れ、スラブ語を公用語とし、キリル文字が作られた。
ブルガリア教会の帰属問題 ブルガリア帝国はその後もビザンツと争いながら次第に領土を奪い、スラヴ系住民を取り込んで大国に成長した。南はビザンツ帝国、北西はフランク王国と接していたことから、キリスト教徒の住民も増えていった。ボリス=ハン(1世。在位852~889)はキリスト教受容を決意し、まずローマ教会に接触した。しかし、ブルガリアがカトリック側で改宗することを警戒したビザンツ皇帝ミカエル3世は、ブルガリアの飢饉に乗じて出兵して、和平条件としてギリシア正教を受容させた(864年ごろとされる)。しかし、ボリス1世はローマ教会にも使節を送り、ローマ教会の典礼の受容にも熱心だったので、ここにブルガリアのキリスト教受容を巡ってローマ教会とビザンツ帝国(ギリシア正教)の東西教会の対立が生じた。問題を解決するため、869年に公会議(第9回)をコンスタンティノープルで開催した。その結果、ブルガリア教会は東方教会に属し、コンスタンティノープル総主教の管轄下に入ることが大勢となった。 → キリスト教会の東西分裂を参照
ビザンツ軍を破る ボリス1世(キリスト教に改宗してからは王を称す)はギリシア正教を受け入れ、ビザンツに従順であったが、次のシメオンは即位後まもなくビザンツに宣戦、894年にはビザンツ軍に勝利してアドリア海沿岸まで領土を拡げた。このときビザンツ帝国はドナウ河口のデルタ地帯にいたマジャール人を味方にしてブルガリアを挟撃しようとしたが、シメオンはマジャール人の北にいたペチュネグ人を動かしてマジャールを挟撃したため、敗れたマジャール人は西方に逃れ、パンノニアに入り、後にハンガリー王国を建国することになる。
「帝国」となる シメオンはその後もたびたびビザンツ領に侵入しバルカンに領土を拡げた。コンスタンティノープルを陥落することは出来なかったが、ビザンツを脅かしたシメオンに対して、913年にコンスタンチノープル総主教は「ブルガリア皇帝(バシレウス)」として加冠し、さらに924~925年にかけては、「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗った。これによって「ブルガリア帝国」と言われることとなった。<栗生沢猛夫『ビザンツとスラヴ』世界の歴史11 p.312-314>
 ブルガリア帝国は10世紀初めの皇帝シメオンの時に全盛期となった。その領土は現在のブルガリアだけでなく、ルーマニア、ハンガリーの一部、セルビア、北マケドニア、アルバニアに及んだ。しかし長びいた戦争で国土は疲弊し、その死後、北方からのロシア人(ルーシ)の侵入を受け、帝国は急速に衰え、ビザンツの反撃を受けて第1帝国は滅亡する。
ブルガリアで生まれたキリル文字 現在、ロシアとブルガリアで使われているキリル文字は、ブルガリアで考案されたものである。キリル文字はビザンツからモラヴィアに派遣されたキュリロスとメトディオス兄弟が作ったと言われていたが、実は彼らがつくったのはグラゴール文字というものだった。グラゴール文字はスラヴ語を表記するために考案されたが複雑であったため使われなくなった。9世紀にブルガリア帝国のボリス1世は、キュリロスの弟子の宣教師たちを招いて布教にあたらせた。その時、ブルガリアでグラゴール文字をギリシア文字を参考に使いやすく改良して文字を作った。それを宣教師たちがキュリロスを讃えて「キリル文字」と呼んだのだった。キリル文字はスラブ語を表記する文字としてよく使われ、ギリシア正教がロシアに広がっていくと共にロシアでも使われるようになった。キリル文字はよく「ロシア文字」と言われるが、ロシアで作られたのではなく、ブルガリアで生まれたものだった。キリル文字は「ブルガリアが、スラブ世界に不滅の文化遺産を残した」ものなのである。<加藤雅彦『ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化―』1991 岩波新書 p.179>

第1次ブルガリア帝国の滅亡

 しかし、内紛で衰退するうちに、ビザンツ帝国マケドニア朝バシレイオス2世が攻勢に転換、1014年には「ブルガリア人殺し」といわれる大虐殺を行って伴って征服し、1018年にはブルガリア王国を併合した。

Episode 「ブルガリア人殺し」

 1014年の遠征の時、ビザンツ帝国のバシレイオス2世は1万5千のブルガリア兵捕虜を100人ずつのグループに分け、各グループのうち99人の両目をくりぬき、残りの一人だけは片目を残して道案内役をさせてブルガリア王のもとへ送り返した。ぞろぞろやってくる盲人の列を見て王は驚きのあまり倒れ、2日後に死んでしまったという。これでバシレイオスには「ブルガリア人殺し」という渾名がつけられたという。<井上浩一『ビザンツとスラヴ』世界の歴史11 p.119>

第2次ブルガリア王国

 第2次ブルガリア王国は、都はタルノヴォ。1187年、ビザンツ帝国の衰えに乗じて第1次ブルガリア帝国が復興したもの。第1次と同じく、皇帝を称した。1205年4月、アドリアノープルの戦いでラテン帝国を破り、バルカン半島で最強となった。しかし、1237年からバトゥの率いるモンゴル帝国のロシア侵攻が始まり、ブルガリア王国もモンゴル軍に蹂躙され、キプチャク=ハン国に貢納を強制され、次第に衰える。
 次いで14世紀後半には、アナトリアからバルカン半島に進出してきたオスマン帝国の脅威にさらされることとなった。1371年、ブルガリア王国のシュシュマン王はオスマン帝国のムラト1世と戦って敗れて降伏し、その領土の大半はオスマン領となった。ブルガリアはセルビア王国軍などとともに、1389年コソヴォの戦いで再びオスマン軍と戦ったが敗れ、ブルガリアは1392年に滅ぼされた。バルカンのキリスト教国連合軍は反撃を試み、1396年ニコポリスの戦いでオスマン軍に挑んだが、この時もバヤジット1世の率いるオスマン軍に敗れ、ブルガリアの地を含むバルカン半島の広範な地域はオスマン帝国領に組み込まれることとなった。バルカン半島西部のアルバニアもオスマン帝国の宗主権を認めさせられた。

(3)ブルガリア自治公国

バルカン半島の大国だったブルガリアは、14世紀末にオスマン帝国に征服され、約500年にわたり支配を受け、ようやく19世紀に独立運動が興り、1877年、露土戦争の後のベルリン条約で自治公国となった。

 ブルガール人はトルコ系であったが先住の南スラヴ人と同化しながらバルカン半島東部を征服して国家を建国し、次第にスラヴ化した。7~13世紀に第1次ブルガリア帝国第2次ブルガリア帝国が繁栄したが、14世紀の末までにオスマン帝国の支配下に入り、それ以後長くその支配を受けることとなった。

オスマン帝国支配からの自立

 19世紀にオスマン帝国の衰退に乗じてギリシア正教徒の宗教的な自立を掲げて独立運動が活発になり、1877年の露土戦争が始まるとロシア側に立って戦い、サン=ステファノ条約で自治国となり領土も拡張、黒海からエーゲ海に面する地域までを含む大ブルガリアを実現させた。しかしこれはロシアの勢力拡大を意味していたのでイギリス・オーストリアの反発を受け、ベルリン会議の開催となり、その結果ベルリン条約では領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国(自治公国)とされることになった。
 その後も完全独立を目指し、1885年には東ルメリア(ベルリン条約でオスマン帝国内の自治州とされた、ブルガリア東南部に隣接する地域)のキリスト教徒が反オスマン帝国の暴動が起こったのを機にそれを併合、反発したセルビアとの戦いにも勝った。この問題を機にロシアとオーストリアの対立が再燃し、新三帝同盟が解消された。1908年に青年トルコ革命が起こったことを機にブルガリア王国として独立を宣言する。

(4)ブルガリア王国

1908年、オスマン帝国からの独立を宣言しブルガリア王国となる。第1次バルカン戦争で領土を拡大したが、第2次バルカン戦争ではセルビアなどに敗れる。

 ベルリン条約(1878年)でオスマン帝国領内の自治国として留められたブルガリアは、1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起きるとその混乱に乗じて独立を宣言し、ブルガリア王国となった。ブルガリア史では、第1次ブルガリア帝国(681年~1018年)・第2次ブルガリア帝国(1185~1396年)についで、自治が認められてからを、第3次ブルガリア王国(1879~実質1944年まで。46年に王政廃止。)と言う場合もある。

バルカン戦争

 ブルガリア王国は、ロシアとの結びつきを強めて1912年にはバルカン同盟を結成し、オスマン帝国と戦い(第1次バルカン戦争)、領土を拡張した。
 しかし、ブルガリアはさらにマケドニア全域の獲得をめざしてセルビア・ギリシアと対立が起こり、バルカン問題をさらに複雑化させた。ブルガリアの領土拡張に反発した他のバルカン諸国とオスマン帝国もセルビア・ギリシア側に立ったので、翌13年に第2次バルカン戦争となった。そこでは孤立した戦いとなって、結局敗北した。8月のブカレスト講和条約でブルガリアはエデルネと東トラキアの一部をオスマン帝国に、南ドブルジャをルーマニアに割譲して領土を失い、マケドニアはセルビアとギリシアで分割されることになった。

(5)二つの世界大戦とブルガリア

ブルガリア王国は第一次世界大戦ではセルビア・ロシアに対する敵対心からドイツなどの同盟国側で参戦し、敗北した。

第一次世界大戦への参戦

 1908年にオスマン帝国からブルガリア王国は独立を達成して王国となったが、第2次バルカン戦争に敗れてセルビア、ルーマニア、ギリシア、トルコに領土を奪われた。特にセルビアとの対立感情が強くなり、反対にオーストリア=ハンガリー帝国と提携を強めた。そのため、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の働きかけにより、1915年10月14日に同盟国陣営に加わって参戦した。
第一次大戦で敗戦国に ブルガリア軍は西部のセルビアに侵攻し、その首都ベオグラードを占領、セルビア政府をアドリア海のコルフ島に追いやるまでになったが、しかしギリシアのサロニカに上陸したイギリス・フランス連合軍がバルカンを北上し、1918年9月にセルビア軍とともにブルガリア軍に壊滅的打撃を与えた。ブルガリア政府はついに9月30日に停戦に合意した。
 こうしてブルガリアは敗戦国となり、連合国との間でヌイイ条約を締結し、領土を大幅に減少させることとなった。

大戦間のブルガリア

 ブルガリア王国は1919年の総選挙で農民同盟が第1党となり、その指導者スタンボリースキが首相となったが、23年に反対派のクーデターによって暗殺されてしまった。その後も政情不安が続き、1935年からは国王ボリス3世による独裁政治が始まる。そのもとで、非合法とされていたブルガリア共産党が、コミンテルン書記長のディミトロフの指導で「人民戦線」の結成を目指した。

第二次世界大戦で枢軸側に

 第二次世界大戦が勃発すると、ボリス3世は当初は中立をかかげたが、1941年に日独伊三国同盟に加入し、枢軸国の一員となり、ドイツ軍を国内に導入、ドイツに協力して2万人のユダヤ人の追放を約束した。それに対して労働者党(共産党が38年に改称)を中心とするパルチザン闘争が行われ、対独協力を妨害した。ボリス3世は43年8月、ヒトラーを訪問した帰りに急死し6歳のシメオンが国王となった。44年9月5日、ソ連はブルガリアに宣戦布告、8日に領内に進撃した。翌9日、首都ソフィアでパルチザンと祖国戦線が権力を掌握した。ブルガリア王国はこれで事実上終わったが、正式な王政廃止は戦後の46年。さらに新憲法の下共和国となるのは47年。

(6) 第二次世界大戦後のブルガリア

第二次大戦後、1946年に王政が廃止され人民共和国となる。東欧社会主義圏に加わり、ソ連の衛星国の一つとなる。。

 ブルガリア王国は枢軸国として第二次世界大戦に参戦した。国内では、コミンテルン書記長のディミトロフが指導した労働者党(38年に共産党から改称)の影響も強く、43年には対独抵抗組織として労働者党を中心に祖国戦線が結成され、パルチザン闘争を続けていた。
 1944年9月8日にソ連軍が領内に侵攻すると呼応したパルチザンと祖国戦線も一斉蜂起し、首都ソフィアで権力を掌握した。ただちに各党連立の新政権が生まれたが、労働者党は法相、内相のポストを得て、警察を握った。新政権の元で、ドイツ協力者は厳しく弾劾され、2138名が処刑された。

共産政権の成立

 1945年に総選挙が行われたが、労働者党は人民民主主義をかかげ、祖国戦線による統一候補者名簿方式で事実上の一党独裁を策し、それに反発した保守派が選挙をボイコットしたため、労働者党側が88%の得票で圧勝した。1946年9月8日、国民投票によって92%の賛成を得て王政は廃止され、ブルガリア人民共和国の成立が宣言された。国王シメオン2世はエジプトに亡命した。同年10月の総選挙によって労働者党のディミトロフが首相となり、47年からは反社会主義の政治家は次々と粛清され、農地改革、産業国有化が進められ、47年12月4日に新憲法が制定された。こうしてブルガリアは東ヨーロッパ社会主義圏に入り、コメコンに加盟、1955年にはワルシャワ条約機構に加盟してソ連の衛星国家の一つとなった。

(7)ブルガリアの民主化と現代

ブルガリアの歴史と、1989年の民主化の実現。現在のブルガリア。

 ブルガリアはバルカン半島の東側、黒海に面し、ドナウ川の南岸に位置する。面積約11万平方km(日本の約3分の1)人口は771万。そのうちわけはブルガリア人(約80%)、トルコ系(9.7%)、ロマ(3.4%)となる。言語はブルガリア語で、ブルガリア人は、トルコ系と思われるブルガール人と南スラヴ人が同化して構成したものと思われる。宗教はビザンツ帝国の影響を受け、東方教会の一派のブルガリア正教会が多数である。イスラーム教徒のトルコ人との民族対立もかつて問題となった。首都はソフィア。名産はブルガリア・ヨーグルト。なお、元大関琴欧州はブルガリア出身。

社会主義ブルガリア

 1947年、ディミトロフ首相の下で、スターリン憲法をモデルにした憲法が制定され、正式に人民共和国となった。しかし翌48年には早くもユーゴスラヴィアのコミンフォルムからの除名問題が起こり、社会主義陣営の内部対立も明らかとなった。ブルガリアはソ連に忠実な工業化、集団化を進め、49年のディミトロフの死後、54年にジフコフが共産党書記長となり、その後35年にわたる長期政権となる。

ジフコフ政権下の停滞

 ジフコフはフルシチョフにも忠実であったが、さらに1968年のチェコ事件でもワルシャワ条約機構に加わり出兵している。またルーマニア人の影響を受けて民族主義的な締め付けを加え、国内のトルコ人にブルガリア風の改名を強制したためトルコ人が13万もトルコに亡命した。しかし1980年代にはいると他の社会主義国と同じように経済の停滞が目立ち始め、民衆生活の困窮という経済危機に直面した。

ブルガリアの民主化

 1989年、東欧革命の中で、ベルリンの壁が開放された直後、ゴルバチョフと連携したムラデノフ外相がジフコフを辞任に追い込み、一種のクーデターが成功した。
 90年6月には初めての自由選挙が実施され、社会党(旧共産党)が第一党となったが、その後の選挙では民主派と旧共産党が交互に政権を担当しながら、市場経済化を図っている。2004年にはNATOに加盟、また2007年1月にはルーマニアとともに念願のEUに加盟を実現した。
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書籍案内

坂本勉
『トルコ民族の世界史』
2006 慶応義塾大学出版会

井上浩一/栗生沢猛夫
『ビザンツとスラブ』
世界の歴史 11
初刊1998 中公文庫

加藤雅彦
『ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化―』
1991 岩波新書

芝宜弘
『図説バルカンの歴史改訂新版』
2006 河出書房新社