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マケドニア

マケドニアはアレクサンドロスの出現など、世界史の中で重要な国名であるが、古代のマケドニアと現代のマケドニアには直接的なつながりはない(国家意識としては継承されているだろうが)ので注意を要する。

 マケドニアは、古代のマケドニア王国と現代のマケドニア(正式国名はマケドニア旧ユーゴスラビア共和国)とは領土の一部は重なっているが、民族的には連続性がない。古代マケドニア王国は古代ギリシア人が建てた国で、エーゲ海北岸から内陸の山岳地帯にひろがり、そのほとんどは現在のギリシアに属する。ビザンツ帝国の時代の6世紀頃から南スラヴ人が南下して定住するようになり、スラヴ化が進むみ、9~11世紀のビザンツ帝国の全盛期にはマケドニア出身者が皇帝となってマケドニア朝が成立した。その後、イスラーム教徒のオスマン帝国の支配を受けたことで大きく変貌し、オスマン帝国からの独立を模索する時代が続き、1945年にユーゴスラヴィア連邦を構成して独立した。1991年に連邦から独立したのが現在のマケドニアであるが、その領土は古代マケドニアとは一致せず、その北に接している。
 古代のマケドニア王国  中世から近代のマケドニア  現代のマケドニア  

古代のマケドニア王国

古代のマケドニアは、ギリシア北方にあった国で、フィリッポス2世の時ギリシアに進出し、スパルタを除くポリスを制圧した。その子アレクサンドロスは、前4世紀に東方遠征に出発、ペルシア帝国を滅ぼしてバルカン半島からインダス川流域に至る大帝国を建設した。その死後、アレクサンドロス帝国はディアドコイの争いで分裂、マケドニアはアンティゴノス朝がヘレニズム諸国の一つとして存続したが、前1世紀にローマに征服され、その属州となった。

マケドニアの前身

 マケドニアはギリシア本土(ヘラス)の北方の地方。エーゲ海北岸に接する平野部と、バルカンの山岳地帯に接する山岳部からなる。ギリシアの大部分と異なり、平野部が広く、地中海性と大陸性の気候が併存している。マケドニア人は平野部と山岳部を季節ごとに移動する遊牧生活を行っていた。彼らは現在ではギリシア民族の一派で古代ギリシア人の北西方言群に属する考えられているが、古代のギリシア本土のヘラスの人々(ヘレネス)から生活習慣がまったく異なるので、異民族つまり、バルバロイ扱いを受けた。マケドニア王国は世襲の王族が支配し、貴族の族長たちが騎兵としてそれを支える族長社会であって、農民は農業や移動的な牧畜を営み、奴隷は基本的には存在しなかった。<以下、森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 などによる>

マケドニアの成立

 マケドニア人は前7世紀ごろに国家を形成し、王政を成立させていたが、前6世紀末、アケメネス朝ペルシア帝国の勢力がバルカン半島に及ぶと同盟関係を結び、その宗主権下に入った。ペルシア戦争が始まると前492年のダレイオス1世、前480年のクセルクセス1世の派遣したペルシア陸軍が、いずれもマケドニアを通過してギリシア本土を目指した。しかし、ペルシア戦争でギリシア征服に失敗したペルシア帝国は、エーゲ海域から撤退したために、マケドニア王国はギリシア諸都市と関係を強め、特にアテネとは同盟を結び、海軍の艦船建造のための木材を輸出して利潤をあげた。

ギリシア化の進行

 マケドニアは前5世紀の末、都としてペラを建設した。王たちは新都ペラにギリシア文化の粋を集め、宮殿を建設し、芸術家を招いてギリシア化政策を進めた。アテネの悲劇作者エウリピデスも晩年にペラに招かれている。1957年に王宮跡が発見され、その発掘調査によって全貌が明らかになった。さらに昭和52-78年にはペラ以前の都だったアイガイで前4世紀の三基の王墓が発掘され、フィリッポス2世などの墓と比定されている。このように現在では考古学上の発見もあって古代マケドニアの歴史がかなり明らかになってきている。

フィリッポス2世

 ギリシア化を進めたマケドニアであったが、 ギリシア本土とは異なり、都市国家は形成させず、王政のままとどまった。前4世紀の前半は王位を巡る内戦が続き、北方からのイリュリア人、パイオニア人の侵攻もあって危機を迎えたが、前359年に23歳で即位したフィリッポス2世は、巧みな外交と軍隊の育成に成功して、マケドニアをバルカン半島で最有力の国家に成長させた。バルカン半島の豊かなパンガイオン金鉱を手にいれて金貨を発行し、財政を豊かにしたことも大きかった。また軍制改革では重装歩兵密集部隊を独自の長槍で武装させ、さらに生産活動から離れた職業的戦士を育成した。
カイロネイアの戦いとコリントス同盟 フィリッポス2世は、ペロポネソス戦争後のポリス民主政の衰退に乗じてギリシア本土に侵攻し、前338年カイロネイアの戦いアテネテーベの連合軍に対し圧倒的な勝利をおさめ、ギリシア本土=ヘラスの大半を屈服させた。さらに翌年スパルタを除くポリスを加盟させてコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成し、その盟主となった。フィリッポス2世はさらにペルシアへの遠征を企図していたが、前336年、暗殺されて挫折し、その遺志は子のアレクサンドロスが継承することとなった。

アレクサンドロス大王

 その子アレクサンドロスは東方遠征を行い、小アジアからシリア、エジプトを征服、ついにペルシア帝国を滅ぼして、ギリシア世界からオリエントにまたがる空前の大帝国を建設した。アレクサンドロス大王は、コリントス同盟の盟主として、全ギリシア軍を率いたが、その主力となったのはマケドニア人であった。多くのギリシア人にとって、大王の東方遠征による負担への不満が充満していた。アレクサンドル遠征中のマケドニアは代理のアンティパトロスが統治したが、アレクサンドロスの母のオリュンピアスの力も強く、両者はしばしば対立した。前331年にはスパルタ王アギスの反乱が起こり、アンティパトロスはそれを鎮圧することに成功したが、不穏な状態は続いた。

ディアドコイ戦争

 前323年のアレクサンドロス大王の死後は、その大帝国は後継者(ディアドコイ)たちが争って分裂した。マケドニアの王位もアレクサンドロス大王が後継者を指名しないで死去したので、母や正妻(ロクサネ)などがそれぞれ血縁のものを建てて争った。前316年、実権を握ったアンティパトロスの息子のカサンドロスは大王の母のオリュンピアスを殺害、正妻ロクサネと大王の子アレクサンドロス4世を擁立したが、前310年頃、密かに殺害し、ここにマケドニア王アレクサンドロスの血統は途絶えた。カッサンドロスは前305年頃、マケドニア王を宣言した。しかし、アレクサンドロスの部将アンティゴノスは帝国の再統一をめざし、小アジアを支配して前306年にマケドニア王を宣言(アンティゴノス1世)したが、それに対抗してエジプトのプトレマイオス、シリアのセレウコス朝なども王を称し、ディアドコイ同士の戦争は激しさを増した。前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世とデメトリオスの親子がカサンドロスとリュシマコスの連合軍に敗れ、その支配地は他のディアドコイに分割された。

アンティゴノス朝マケドニア

 後の前276年にアンティゴノスの孫のアンティゴノス2世がマケドニア王を称してアンティゴノス朝マケドニアが成立すると、すでに独自の政権を樹立していたセレウコス朝のシリア、プトレマイオス朝のエジプトなどとともにヘレニズム諸国の一つとなった。
 前2世紀にはローマの進出が激しくなり、3度にわたるマケドニア戦争を戦ったが、前168年にピュドナの戦いで敗れて滅亡し、ローマの属州とされた。

参考 旧都アイガイの王墓発掘

 1977~78年、ギリシアのテッサロニキ大学の考古学者アンズロニコス教授が、古都アイガイ(ペラに移るまでのマケドニアの都)にあたるヴェルギナで、三基の墳墓を発掘した。そのうち二基は盗掘を免れており、王家にふさわしい豪華な副葬品が出土した。これらの墳墓は出土品から見て前4世紀のマケドニア王国全盛期のものと推定され、20世紀最後の大発見と言われた。さらに発見者アンズロニコスは第二墳墓をフィリップ2世の墓と発表して大反響を呼んだ。その後、この三基の墓の被葬者が誰か、30年にわたって論争が繰り広げられている。  森谷公俊氏は、アンズロニコス説を否定して、第一墳墓こそフィリップ2世のものであるとしている。第一墳墓には三体の人骨が残されており、成人男性がフィリッポ2世、20代女性がその妻(の一人)クレオパトラ、嬰児がその二人の間に生まれ、クレオパトラと共にもう一人の妻オリュンピアスによって殺されたエウローパのものと見ている。さらに第二墳墓はアレクサンドロスの異母帝フィリッポス3世とその妻エウリディケ(この二人もオリュンピアス煮殺された)、第三墳墓はアレクサンドロス大王とロクサネの間に生まれたアレクサンドロス4世をそれぞれ被葬者と見立てている。これには有力な異説もあるようだが、その推理には納得させるものがある。<森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス』2012 ちくま学芸文庫 p.127-128,213-218 初出は1997 ちくま新書>

マケドニア(中世から近代)

ビザンツ帝国の支配下で、徐々にスラブ化が進み、ブルガリアとセルビアの支配を受けた後、15世紀頃オスマン帝国が進出する。こうしていくつかの民族や宗教が重層的に重なりある文化的特徴が形成された。

中世以降のマケドニア

 ビザンツ帝国の時代に、6世紀頃から南スラヴ人が定住するようになり、スラヴ化が進む。9~11世紀にビザンツ帝国の全盛期をもたらしたマケドニア朝とは、マケドニア出身者が皇帝となって成立した。
 中世にはブルガリア帝国セルビア王国の支配を受けた。15世紀からはオスマン帝国が進出し、イスラーム系住民も多くなった。その後はバルカン半島の中でも最も複雑な民族対立が続くこととなる。

東方問題

 19世紀の東方問題の進展によりバルカン諸国が独立あるいは自治を獲得する中で、マケドニアは依然としてオスマン帝国の支配が続いた。さらに隣接するセルビア、ブルガリア、ギリシアの領土的野心にさらされるようになり、1877年の露土戦争でオスマン帝国が敗れると、78年のサン=ステファノ条約でマケドニアは、ロシアの後押しで成立したブルガリア自治公国(大ブルガリア公国)に併合されることになった。しかしロシアのバルカン進出を警戒したイギリスやオーストリアが反発し、ドイツ帝国のビスマルクのベルリン会議での調停の結果、ベルリン条約で大ブルガリア公国の領域は縮小され、マケドニアはオスマン帝国に返還された。

マケドニアの分割

 マケドニアの民族的自覚は遅れたが、ようやく1893年に「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げるVMRO(内部マケドニア革命組織)が結成され、20世紀初頭に民族運動が盛んになった。しかし第2次バルカン戦争(1913年)の結果、セルビア・ブルガリア・ギリシアの三国によって分割されることとなった。

セルビア領マケドニア

 そのうちのセルビア領マケドニアは、第一次世界大戦後に成立した南スラブ人の国であるセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となり、この国は1929年にユーゴスラヴィア王国に改称した。

現代のマケドニア

第二次世界大戦後の1945年に社会主義国ユーゴスラヴィア連邦が成立し、マケドニアもその一共和国となった。ティトーの主導の下、独自の社会主義と非同盟主義を採っていたユーゴスラヴィアは、ティトーの死後、民族間の対立が始まり、マケドニアは1991年に連邦から分離独立を宣言した。

現代のマケドニア人

 現在のマケドニアに済んでいるマケドニア人は、南スラヴ系のスラブ人種が多数を占めており、古代のアレクサンドロス大王のマケドニアとは地理的にはその一部であるが民族的には直接的な関係はない
 この地はローマ帝国領・ビザンツ帝国遼が長く続いた後、14世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出して、その支配を受けることとなり、その間ギリシア系、スラヴ系、トルコ系などの人種、キリスト教、ギリシア正教、イスラーム教などの宗教が混在する地域となった。そのような中で次第に南スラヴ語系のマケドニア語を話す「マケドニア人」としてのまとまりを持つようになった。宗教はギリシア正教の一つ、マケドニア正教会が多数を占めている。

ユーゴスラヴィア連邦

 ユーゴスラヴィア王国は第二次世界大戦でドイツに占領されたが、激しいパルティザンによる抵抗が行われ、その中から現れたティトーが強力な主導権を発揮して、1945年にユーゴスラヴィア連邦を建国した。マケドニアもそれを構成する共和国の一つとなった。ユーゴスラヴィア連邦はティトーの主導の下、独自の社会主義と非同盟主義を掲げていたが、70年代から経済が停滞、80年代には民主化の動きが出てきた。ティトーの存命中は連邦の枠組みは守られていたが、1980年に彼が死ぬと、民族間の対立が始まり、1989年の東欧革命の急激な動きが波及して分解に向かい、1991年にスロヴェニア、クロアティアに続いてマケドニアも連邦から分離独立を宣言した。

現在のマケドニアの独立

 ユーゴスラヴィアの解体によって1991年に分離独立したのが現在のマケドニアである。現在マケドニアは、古代以来マケドニアと言われた地域が1913年の第2次バルカン戦争で分割されたうちの、セルビアに割譲された地域にすぎない。そこでマケドニアは、ギリシア領(特に港であるテッサロニキ)とブルガリア領となっている旧マケドニアの併合も要求しており、隣国との紛争の火種となっている。

領土と国名の紛争

 また独立する際、「マケドニア」を国号としたことにたいして、南に接するギリシアはそれに反発し、両国の関係が悪化した。93年、マケドニア側が譲歩して「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(Former Yugoslav Republic Of Macedonia)」の暫定名称を用いることでギリシャの譲歩を引き出し、国際的な承認を得るとともに国連加盟を果たした。

Episode 国旗で「歴史の略奪」

 ギリシアはマケドニアが独立したとき、その国名とともに国旗にもクレームをつけた。マケドニアが国旗にしようとしたのは、古代のビザンツ帝国のマケドニア朝で用いられていた「ヴェルギナの星」(太陽の周りに16本の放射線状の光を配する)であったが、それに対してギリシアは古代マケドニアはギリシアの歴史に属するもので、ヴェルギナもギリシアの地名であり、「歴史の略奪」だと抗議した。その背景はギリシア北部にはまだ多数のマケドニア人がおり、マケドニアの領土要求がギリシアに及ぶことを恐れたからであった。結局、マケドニア政府は国旗は右のようなストライプが8本のものに変更した。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2006 河出書房新社 p.163><

現代の民族紛争と国連、NATOの介入

 新たな問題として国内のアルバニア人の民族対立問題がある。マケドニアには約23%のアルバニア系住民が住んでいるが、隣接するアルバニアとコソヴォ地方から職を求めて多数のアルバニア人が入り込んでいる。ボスニア内戦が波及することをおそれた国連は92年3月、紛争防止を目的とした初めての国連保護軍(UNPROFOR)を展開、マケドニア政府も和解に応じ、民族共存のモデルケースとなると期待された。ボスニア内戦終了後も国連予防展開軍(UNPREDEP)と改称されて存続したが、マケドニアが台湾を承認したことに反発した中国が安保理で拒否権を行使し、延長は中止された。2001年3月、マケドニア政府は北部のアルバニア人武装勢力の掃討作戦を展開したが、EUの強い圧力でアルバニア人の権利拡大を承認し、ようやく合意文書が締結され、8月からNATO軍が展開して武器回収に当たり、平穏を取り戻した。

ギリシアとの対立

 マケドニアの国名をめぐるギリシアとの対立は依然として継続している。マケドニアは主要幹線道路や首都スコピエの国際空港の名称に「アレクサンダー大王」の名を冠しており、それに対してギリシア側は挑発行為であると非難し、名前そのものが文化遺産だと主張している。
 また、マケドニアのNATOとEUへの加盟についてもギリシアは強く反発しており、マケドニアはそれを不当として国際司法裁判所に提訴した。ギリシアは北部のマケドニア地方へのマケドニア側の領土要求を警戒している。両国間の対立は不買運動にまでエスカレートしており、新たなバルカン問題として憂慮されている。<毎日新聞 09年2月10日 朝刊>
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書籍案内

森谷公俊
『アレクサンドロス
の征服と神話』
2007 興亡の世界史1
2016 講談社学術文庫

森谷公俊
『アレクサンドロス
とオリュンピアス』
1997 ちくま新書
2016 ちくま学術文庫