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マケドニア(古代)

古代のマケドニアは、ギリシア北方にあった国で、フィリッポス2世の時ギリシアに進出し、スパルタを除くポリスを制圧した。その子アレクサンドロスは、前4世紀に東方遠征に出発、ペルシア帝国を滅ぼして大帝国を建設した。その死後、マケドニアはその部将アンティゴノスが引き継ぎ、ヘレニズム諸国の一つとして存続したが、前1世紀にローマに征服され、その属州となった。

 マケドニアはギリシア本土(ヘラス)の北方の地方。マケドニアの都はペラ。1957年に王宮跡が発見された。マケドニア人はギリシア民族の一派だが、ヘラスの人々からはバルバロイ扱いを受けた。ギリシア本土とは異なり、都市国家は形成させず、王政のままとどまり、前4世紀ペロポネソス戦争後のポリス民主政の衰退に乗じてギリシア本土に侵攻し、フィリッポス2世が、前338年カイロネイアの戦いでヘラスを屈服させた。

アレクサンドロス大王

 その子アレクサンドロスは東方遠征を行い、ペルシア帝国を滅ぼして、ギリシア世界からオリエントにまたがる空前の大帝国を建設した。前323年のアレクサンドロス大王の死後は、その大帝国は後継者(ディアドコイ)たちが争って分裂した。マケドニアでは部将カサンドロスが実権を奪い、大王の妻や子を暗殺した。部将アンティゴノスは帝国の再統一を目指したが、前301年のイプソスの戦いでマケドニアのカサンドロスや小アジアのシュリマコスらに敗れ分裂が続いた。

アンティゴノス朝マケドニア

 後に前276年にアンティゴノス2世がマケドニア王となりアンティゴノス朝マケドニアが成立、東方のシリア、エジプトなどとともにヘレニズム諸国の一つとなった。前2世紀にはローマの進出が激しくなり、3度にわたるマケドニア戦争を戦ったが、前168年にピュドナの戦いで敗れて滅亡し、ローマの属州とされた。

マケドニア(中世から近代)

ビザンツ帝国の支配下で、徐々にスラブ化が進み、ブルガリアとセルビアの支配を受けた後、15世紀頃オスマン帝国が進出する。こうしていくつかの民族や宗教が重層的に重なりある文化的特徴が形成された。

中世以降のマケドニア

 ビザンツ帝国の時代に、6世紀頃から南スラヴ人が定住するようになり、スラヴ化が進む。9~11世紀にビザンツ帝国の全盛期をもたらしたマケドニア朝とは、マケドニア出身者が皇帝となって成立した。
 中世にはブルガリア帝国セルビア王国の支配を受けた。15世紀からはオスマン帝国が進出し、イスラーム系住民も多くなった。その後はバルカン半島の中でも最も複雑な民族対立が続くこととなる。

東方問題

 19世紀の東方問題の進展によりバルカン諸国が独立あるいは自治を獲得する中で、マケドニアは依然としてオスマン帝国の支配が続いた。さらに隣接するセルビア、ブルガリア、ギリシアの領土的野心にさらされるようになり、1877年の露土戦争でオスマン帝国が敗れると、78年のサン=ステファノ条約でマケドニアは、ロシアの後押しで成立したブルガリア自治公国(大ブルガリア公国)に併合されることになった。しかしロシアのバルカン進出を警戒したイギリスやオーストリアが反発し、ドイツ帝国のビスマルクのベルリン会議での調停の結果、ベルリン条約で大ブルガリア公国の領域は縮小され、マケドニアはオスマン帝国に返還された。

マケドニアの分割

 マケドニアの民族的自覚は遅れたが、ようやく1893年に「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げるVMRO(内部マケドニア革命組織)が結成され、20世紀初頭に民族運動が盛んになった。しかし第2次バルカン戦争(1913年)の結果、セルビア・ブルガリア・ギリシアの三国によって分割されることとなった。

セルビア領マケドニア

 そのうちのセルビア領マケドニアは、第一次世界大戦後に成立した南スラブ人の国であるセルブ=クロアート=スロヴェーン王国の一部となり、この国は1929年にユーゴスラヴィア王国に改称した。

マケドニア

第二次世界大戦後の1945年に社会主義国ユーゴスラヴィア連邦が成立し、マケドニアもその一共和国となった。ティトーの主導の下、独自の社会主義と非同盟主義を採っていたユーゴスラヴィアは、ティトーの死後、民族間の対立が始まり、マケドニアは1991年に連邦から分離独立を宣言した。

現代のマケドニア人

 現在のマケドニアに済んでいるマケドニア人は、南スラヴ系のスラブ人種が多数を占めており、古代のアレクサンドロス大王のマケドニアとは地理的にはその一部であるが民族的には直接的な関係はない
 この地はローマ帝国領・ビザンツ帝国遼が長く続いた後、14世紀にオスマン帝国がバルカン半島に進出して、その支配を受けることとなり、その間ギリシア系、スラヴ系、トルコ系などの人種、キリスト教、ギリシア正教、イスラーム教などの宗教が混在する地域となった。そのような中で次第に南スラヴ語系のマケドニア語を話す「マケドニア人」としてのまとまりを持つようになった。宗教はギリシア正教の一つ、マケドニア正教会が多数を占めている。

ユーゴスラヴィア連邦

 ユーゴスラヴィア王国は第二次世界大戦でドイツに占領されたが、激しいパルティザンによる抵抗が行われ、その中から現れたティトーが強力な主導権を発揮して、1945年にユーゴスラヴィア連邦を建国した。マケドニアもそれを構成する共和国の一つとなった。ユーゴスラヴィア連邦はティトーの主導の下、独自の社会主義と非同盟主義を掲げていたが、70年代から経済が停滞、80年代には民主化の動きが出てきた。ティトーの存命中は連邦の枠組みは守られていたが、1980年に彼が死ぬと、民族間の対立が始まり、1989年の東欧革命の急激な動きが波及して分解に向かい、1991年にスロヴェニア、クロアティアに続いてマケドニアも連邦から分離独立を宣言した。

現在のマケドニアの独立

 ユーゴスラヴィアの解体によって1991年に分離独立したのが現在のマケドニアである。現在マケドニアは、古代以来マケドニアと言われた地域が1913年の第2次バルカン戦争で分割されたうちの、セルビアに割譲された地域にすぎない。そこでマケドニアは、ギリシア領(特に港であるテッサロニキ)とブルガリア領となっている旧マケドニアの併合も要求しており、隣国との紛争の火種となっている。

領土と国名の紛争

 また独立する際、「マケドニア」を国号としたことにたいして、南に接するギリシアはそれに反発し、両国の関係が悪化した。93年、マケドニア側が譲歩して「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国(Former Yugoslav Republic Of Macedonia)」の暫定名称を用いることでギリシャの譲歩を引き出し、国際的な承認を得るとともに国連加盟を果たした。

Episode 国旗で「歴史の略奪」

 ギリシアはマケドニアが独立したとき、その国名とともに国旗にもクレームをつけた。マケドニアが国旗にしようとしたのは、古代のビザンツ帝国のマケドニア朝で用いられていた「ヴェルギナの星」(太陽の周りに16本の放射線状の光を配する)であったが、それに対してギリシアは古代マケドニアはギリシアの歴史に属するもので、ヴェルギナもギリシアの地名であり、「歴史の略奪」だと抗議した。その背景はギリシア北部にはまだ多数のマケドニア人がおり、マケドニアの領土要求がギリシアに及ぶことを恐れたからであった。結局、マケドニア政府は国旗は右のようなストライプが8本のものに変更した。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2006 河出書房新社 p.163><

現代の民族紛争と国連、NATOの介入

 新たな問題として国内のアルバニア人の民族対立問題がある。マケドニアには約23%のアルバニア系住民が住んでいるが、隣接するアルバニアとコソヴォ地方から職を求めて多数のアルバニア人が入り込んでいる。ボスニア内戦が波及することをおそれた国連は92年3月、紛争防止を目的とした初めての国連保護軍(UNPROFOR)を展開、マケドニア政府も和解に応じ、民族共存のモデルケースとなると期待された。ボスニア内戦終了後も国連予防展開軍(UNPREDEP)と改称されて存続したが、マケドニアが台湾を承認したことに反発した中国が安保理で拒否権を行使し、延長は中止された。2001年3月、マケドニア政府は北部のアルバニア人武装勢力の掃討作戦を展開したが、EUの強い圧力でアルバニア人の権利拡大を承認し、ようやく合意文書が締結され、8月からNATO軍が展開して武器回収に当たり、平穏を取り戻した。

ギリシアとの対立

 マケドニアの国名をめぐるギリシアとの対立は依然として継続している。マケドニアは主要幹線道路や首都スコピエの国際空港の名称に「アレクサンダー大王」の名を冠しており、それに対してギリシア側は挑発行為であると非難し、名前そのものが文化遺産だと主張している。
 また、マケドニアのNATOとEUへの加盟についてもギリシアは強く反発しており、マケドニアはそれを不当として国際司法裁判所に提訴した。ギリシアは北部のマケドニア地方へのマケドニア側の領土要求を警戒している。両国間の対立は不買運動にまでエスカレートしており、新たなバルカン問題として憂慮されている。<毎日新聞 09年2月10日 朝刊>
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