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アルバニア

バルカン半島西部に位置する非スラヴ系民族。オスマン帝国の支配を受けていたが、1913年に独立を宣言した。第一次世界大戦後はイタリアに併合され、ついでドイツに占領されるが、ホジャの率いる共産党パルチザンによって解放され、第二次世界大戦に独立を回復、社会主義国となった。しかしホジャの独裁政治のもと、鎖国政策がとられ、経済の停滞が続き、その死後、1991年に社会主義体制を放棄した。

現在のアルバニア YahooMap

 アルバニア人は古代の先住民イリリア人の末裔と考えられており、バルカン半島に広がっていたが、6世紀以来南スラヴ人の侵攻を受けて現在のアルバニアの山岳地帯に追われてきた。その後、ビザンツ帝国や、ブルガリア王国、セルビア王国の支配を受け、15世紀からはオスマン帝国の支配下に入った。
 19世紀から、オスマン帝国内の被支配民族に自治の要求が高まる中、アルバニアにも民族運動が起こる。1908年のオスマン帝国での青年トルコ政権成立に伴って1911~12年に独立を求めて武装蜂起し、13年にアルバニア王国の独立が承認された。しかしアルバニア人居住の多いコソヴォはセルビア領とされたため、その後も問題が残った。
 バルカン半島の民族対立から第一次世界大戦が起こると、アルバニアにも周辺諸国、特にイタリアからの介入が強まり、大戦後はイタリアの委任統治となった。1920年、再独立を果たしたが、政治の混乱から登場したゾグーがイタリアと結んで権力をにぎり、1926年にイタリアの保護国となってその保護のもと、1928年には国王となった。しかし、1939年にヒトラーがチェコスロヴァキアを支配下に収めると、ムッソリーニは対抗してアルバニアに武力侵攻し、イタリアによる併合を実現させた。
 第二次世界大戦中にはイタリア、続いてドイツの支配に対してパルチザン闘争が戦われ、その中から力を付けた共産党が1946年にアルバニア人民共和国を樹立した。指導者ホジャは社会主義をめざしスターリン体制下で政権を維持したが、次第に独裁的となり、1961年にはソ連の被スターリン化に反対して断交、中国と提携したが、毛沢東死後は中国とも断絶し、西側・ソ連・中国からも遮断された鎖国状態となった。
 この間、経済の停滞、自由の制限などの矛盾が強まり、1989年の東欧革命の自由化の波はアルバニアにも及び、1990年、自由化・民主化に踏み切り、91年にアルバニア共和国となる。

アルバニア(1) オスマン帝国からの独立

オスマン帝国の支配

 オスマン帝国領としてのアルバニアは、中心はプリズレンを中心としたコソヴォ地方(コソヴォの戦いのあったところ。現在、セルビアとの間で紛争になっている地域)だった。17世紀には大量改宗があり70%がムスリム(イスラーム教徒)となったが、北部にはカトリック教徒(10%)、南部にはギリシア正教徒(20%)も存在した。アルバニア人は、バルカン諸民族の中では民族的覚醒は遅かったが、それでも1878年にはアルバニア語の使用や自治を求める運動が始まった。

独立運動と独立宣言

 1908年のオスマン帝国での青年トルコ革命以後は、独立運動に発展し、1911~12年にかけて、アルバニア独立を目指す武装蜂起が起こった。オスマン帝国の青年トルコ政権は、アルバニア人に譲歩し自治権を認めた。それを機に、セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアのバルカン同盟がオスマン帝国に宣戦し、12年10月に第1次バルカン戦争が始まった。11月にはアルバニア独立運動の代表はヴローラで国民会議を開き、独立を宣言した。アルバニアの独立は、1913年5月のロンドン条約で正式に認められウィルヘルム公を国王とする「アルバニア王国」となった。

コソヴォ問題の起源

 しかし、アルバニア人の居住区であるコソヴォ地方はアルバニアに編入されずセルビアの領有とされ、アルバニア人の不満が残った。これが、現在に続くコソヴォ問題につながっている。また、アルバニアの独立はイタリア、イギリスなどがセルビアのアドリア海への進出を押さえるために認めたものであったので、セルビアにも不満が残り、南部のマケドニアへの進出を強めることとなり、それがブルガリアとの対立を呼び、翌年早くも第2次バルカン戦争へと発展する。

アルバニア(2) イタリアによる併合

第一次世界大戦後、イタリアの委任統治を経て再独立。政治的混乱から独裁政権が生まれ、1926年からは事実上ムッソリーニのイタリアの保護国となる。1939年にイタリアに併合された。

 アルバニアはイタリアの南端とオトラント海峡をはさんで位置するバルカン半島南西部にあり、1912年のバルカン戦争(第1次)後に独立し王政国家となったが、第一次世界大戦の勃発で周辺諸国が勢力を伸ばし、無政府状態に陥った。1916年末にはオーストリア=ハンガリー帝国軍、イタリア軍、フランス軍に占領された。

イタリア委任統治領から再独立へ

 第一次世界大戦後のパリ講和会議に代表を送り、国家再建を訴えたが、列強の思惑が対立して認められず、妥協の結果、1919年12月にイタリア委任統治領となった。それに対してアルバニア民衆が反発、1920年3月に憲法制定と臨時政府を首都ティラナに樹立することを決定。イタリアもアルバニアの強い抵抗によってそれを認めて全面撤退し「再独立」を認めた。12月にアルバニアは国際連盟加盟し、領土保全も認められた。
 1921年に総選挙が実施されて議会が成立したが、部族社会が色濃く残り、議会は主にムスリムの地主によって占められ、その中から選ばれて1922年に最初の内閣を組織したのがやはりムスリム地主出身の軍司令官アフメド=ゾグーであった。ゾグーは首相兼内相となって権力を掌握し、隣接するユーゴスラヴィア王国からの援助を受け良好な関係にあったが、北部国境問題から次第に関係が悪化した。

イタリアの保護国となる

 そのユーゴスラヴィアがフランスとの提携を強めると、フィウメ問題で対立していたイタリアムッソリーニはアルバニアに接近し、経済援助を強めていった。ゾグーは急速にイタリアへの依存を強め、1923年にティラナ条約(ティラナはアルバニアの首都。友好安全保障条約ともいう)を結び、事実上のイタリアの保護権を認め、アルバニアの保護化が開始された。翌年には防衛同盟条約が締結され、イタリアの政治的影響力はさらに強まった。

国王ゾグー1世の独裁

 ゾクーは強権的な手法で1925年に議会に共和政を宣言させ、自ら大統領となり、イタリアの保護の下、国内の反対派を押さえて独裁政治をしき、さらに1928年9月には議会に憲法を改正させて立憲君主政とし、ゾグー1世として即位した。そのころから共産主義者による反ゾグー運動も活発になった。翌年の世界恐慌の影響が及んで経済危機に陥ったアルバニアはイタリアのムッソリーニ政権からの財政援助に強く依存するようになった。

イタリアに併合される

 ムッソリーニはイタリアの対岸であるアルバニアを併合する機会を狙っていた。1938年9月、自らミュンヘン会談に参加し、イギリス・フランスの宥和政策を確認し、そのわずか6ヶ月後、1939年3月にヒトラーがチェコスロヴァキア解体に踏み切ったのを絶好の機会と捉え、1939年4月、アルバニアに侵攻した。アルバニアはムッソリーニのイタリア軍に占領され、イタリアに併合された。
 これを機にドイツ・イタリア両国は提携を深め、同年5月、ドイツ=イタリア軍事同盟を締結した。アルバニア国王ゾグーは国外に亡命し、独立を喪失した。アルバニアはその後、1943年9月にイタリア軍が連合国に降伏すると、ドイツ軍が代わりに進駐し、その支配をドイツ降伏の1945年5月まで続く。

アルバニア(3) アルバニア人民共和国

第二次世界大戦末期、1944年にイタリア・ドイツとの戦いを指導したホジャの指導で共産党の臨時政府が成立、1946年に人民共和国を樹立した。ホジャはスターリン体制下で独裁権力をにぎるが、スターリン批判後はソ連と対立して、1961年に断交した。中国とは提携したが、毛沢東死後はそれとも関係を断ち、アルバニアは鎖国状態となった。

 1941年11月にユーゴスラヴィア共産党の援助を得て、ホジャを書記長とする共産党が結成され、ファシズム=イタリアに対するパルチザン闘争が開始された。43年9月のイタリア降伏後はドイツが代わって支配者となったがパルチザンの抵抗は続き、44年にホジャを首班とする臨時政府が樹立された。

ソ連との関係悪化

 1946年にアルバニア人民共和国を樹立、パルチザン闘争の指導者ホジャが主導権を握り、スターリン体制に追随する姿勢を続けていた。ところが、1956年、ソ連でスターリン批判が行われると、スターリンを信奉するホジャはソ連との対決姿勢に転じ、58年以降は中ソ対立が始まると、中国の毛沢東に接近、強力な中国=アルバニア同盟を形成した。

ソ連との断交

 中ソ対立が深まると中国はソ連やユーゴスラヴィアを「修正主義」と批判、ソ連は中国やアルバニアを「教条主義」と非難して譲らず、1960年にソ連はアルバニアと断交、翌61年には援助を打ち切り、技術者を引き上げた。アルバニアは1962年からコメコンを脱退、さらに1968年にはソ連およびワルシャワ条約機構軍のチェコ介入(チェコ事件)を批判して、ワルシャワ条約機構(WTO)を脱退した。

中国との連携とその消滅

 ソ連と対立することになったアルバニアは、中国との関係を強化し、毛沢東主導のプロレタリア文化大革命にならってアルバニアでも文化革命とも言うべき宗教根絶の運動を起こし、1967年にはすべての宗教活動を禁止する布告を出した。中国も数少ない同盟国としてアルバニアを扱い、軍事面、経済面でも援助を強めた。
 ところが、毛沢東が文化大革命の収束を狙い、ベトナム戦争を収束させたいアメリカのニクソン大統領と利害が一致して、1971年にニクソン訪中を実現させた。これはアルバニアの頭ごなしに行われたのでホジャは衝撃を受けて、中国との関係も悪化することとなった。1976年に毛沢東が死去して鄧小平が改革開放路線を開始すると、ホジャは激しく非難して、中国との関係はさらに悪化し78年7月に中国はアルバニアに対する援助をすべて停止した。

鎖国政策

 こうしてホジャの指導するアルバニアは、西側諸国、ソ連、中国のいずれとも国交を断ち、単独で社会主義を堅持する事になった。しかし輸出入が途絶えたことで自給自足経済を強いられ、生産・流通は停滞して国民生活が犠牲となり、停滞が続いた。1985年にホジャが死去して長期政権が終わったが、後継権力は民主的な選挙は行われず、後継者のアリアに指定され、国民の不満が強まっていった。

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アルバニア(4) アルバニアの民主化

1990年、自由化・民主化に踏み切り、91年アルバニア共和国となる。

アルバニア国旗
 バルカン半島の西側にあり、かつてはオスマン帝国の支配を受けていたので、イスラーム教徒が多い(約70%がムスリム。20%がカトリック、10%がギリシア正教)。面積は約3万平方km(四国の1.5倍)、人口は310万人。
 1991年までは独自の鎖国政策をとる社会主義国であったため経済が停滞し、「ヨーロッパで最も貧しい国」と言われるようになった。またアルバニア人は現在セルビアとの紛争地となっているコソヴォの多数の住民であり、またマケドニアにも多く居住している。コソヴォやマケドニアにおけるアルバニア系住民はムスリムが多く、民族的対立からヨーロッパの東南部情勢の不安材料の一つとなっている。

アルバニアの国旗

 双頭の鷲は、15世紀にオスマン帝国軍を破ったスカンデルベクの出たカストリオティ家の家紋による。

東欧革命とアルバニア

 アルバニアでは戦後40年にわたるホジャを最高指導者とする社会主義体制のもとで、独自路線といいながら実質的な鎖国体制が続いていた。この間、経済は停滞し、国民生活は悲惨な状況になっていた。ホジャは1985年に死去し、その後はアリアが継承したが、1989年に東欧革命が起こり社会主義体制が相次いで動揺、その影響はアルバニアにも及んだ。
 1990年、アリア政権は経済の自由化と宗教の自由の回復、海外旅行の制限撤廃、つづいて労働党(共産党)による一党独裁の終結、複数政党制・自由選挙の導入など一連の自由化が図られた。1991年初めての自由選挙が行われたが、労働党が第一党となり、アリアは大統領に選出され国名をアルバニア共和国に改めた。

アルバニアの難民、イタリアへ

 しかし厳しい経済状況は変わらず、各地で食料の略奪騒ぎが起こった。仕事と食料を求めてアドリア海の対岸のイタリアに移住しようとする人々が港に詰めかけ、鈴なりの人を乗せた船がイタリアの港に入港しても入国を認められず難民化して世界中を驚かせた。翌92年の選挙では労働党は社会党と名を変えたが大敗し、民主党の医師ベリシャが大統領に選出され、初めて非共産系の政権が生まれ、ようやく本格的な民主化と経済建設が始まった。
 しかし、1997年1月、「ネズミ講」(会員をねずみ算式に増やす一種の投資詐欺)の被害が全国に及んだことが発覚し大問題となり、政府がネズミ講の活動を野放しにしていたためだとされ、野党の支援する反政府デモが一気に盛り上がって各地で治安当局と武装市民の間の武力衝突に拡大、約1,500名の市民が犠牲となる騒動が発生した。総選挙の結果、社会党(旧労働党)が勝ち、ベリシャ大統領は辞任した。その後も一進一退が続いたが、「ヨーロッパで最も貧しい国」からの脱却を目指し、EU加盟を目標に経済建設に向かっている。
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