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サレカット=イスラム/イスラーム同盟

1911年に結成されたインドネシアのイスラーム教徒による民族主義運動組織。サレカット=イスラムがインドネシア語でイスラーム同盟の意味。

 サレカット=イスラム Sarekat Islam は「イスラーム同盟」の意味。なお、「サレカット=イスラーム」と表記されていたが、インドネシア語では「イスラーム」ではなく「イスラム」と発音するので、最近は「サレカット=イスラム」とするのが正しいとされている。
 1911年末、インドネシアの民族運動の中で組織された大衆的な団体。当初はジャワ島中部のジャワ更紗(臈纈(ろうけつ)染め)業者が華人(中国人)商人の進出に刺激されて組織した相互扶助団体で、組織名は商人層に熱心なイスラーム教徒が多かったことによる。1912年9月10日、組織名を正式にサレカット=イスラム(イスラーム同盟)と改称した。

インドネシア語の定着

 イスラーム同盟(サレカット=イスラム)がインドネシアの民族主義運動で重要な役割を担い、その活動によってインドネシアの独立にむけて進むことになったが、その要因には彼らが運動の用語としてムラユ語を使用したことにあった。ムラユ語とは島嶼間の交易や商取引のためと同時に、イスラームの布教のために使われていた言葉だった。遠く離れた島々では、それぞれの地域だけで通じるエスニックな言葉が使われていたが、それでは相互理解が困難だった。オランダも東インド支配のために広域で通用するムラユ語を凖公用語としていたため、都合が良かった。他の民族主義団体もムラユ語を使うようになり、それが「インドネシア」とともに「インドネシア語」として定着していった。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社 p.11-12>

民族運動の高揚

 イスラーム同盟は1914年には会員37万に達し、ジャワ島以外にも運動が広がった。当初は自治の要求にとどまっていたが、第一次世界大戦後の食糧不足から農民の要求も強くなったことを背景に、農民運動・労働運動とも結びつき、社会主義の影響も受けて独立を主張する政党となっていった。1918~20年頃のインドネシア独立運動の中心となったイスラーム同盟を指導したのはチョクロアミノトで、彼は同盟の組織・運営を近代化し、機関紙を発行、運動への大衆の動員に努め、カリスマ的な人望があった。

スカルノの登場

 ジャワ東部のスラバヤを拠点としたチョクロアミノトのもとに多くの活動家が集まるようになり、その一人が若きスカルノだった。同盟員となったスカルノはチョクロアミノトの家に下宿し、そこで西洋の近代思想を学び、マルクス主義も知った。同盟の青年組織である青年ジャワの活動にも参加し、ムラユ語の使用を訴えるなど、地域主義を超えた民族運動の活動家となった。スカルノはチョクロアミノトの娘と結婚(後に離婚)し、バンドンの工科大学に入学、エリートの道を歩みながら、次第にインドネシア民族運動の指導者になっていく。

分裂と衰退

 しかし同時にオランダ植民地政庁による弾圧も強まってきた。イスラーム同盟の内部にも、労働運動と結びついて共産主義と同調するグループと、イスラーム信仰を重視するグループが対立するようになり、1920年には共産主義者が分離してインドネシア共産党を結成した。インドネシア共産党はオランダからの独立を明確に掲げ、ストライキなどを指導して急速に勢力を強めていくと、逆に次第にイスラーム同盟は活動が停滞し、汎イスラーム的な主張にかたむいたことによってオランダ当局からの弾圧も強まり、チョクロアミノトのカリスマ的な指導力も衰え、急速に衰退していった。
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