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インドネシアの民族運動

オランダ植民地支配を受ける中で20世紀になって民族独立運動が活発になる。

 インドネシアは17世紀以来のオランダ領東インドとしてその植民地支配が続いていたが、特に19世紀には強制栽培制度のもとで農民に対する過酷な収奪が続いていた。それに対して20世紀にはいるとマレー人の中に民族の独立と統一を求める声が強まってきた。先駆者的な人物としてはカルティニや「サミンの民」があるが、組織的な運動の最初は、1908年に始まるブディ=ウトモと言われる文化運動団体である。これはジャワ島の知識人の運動にとどまったが、次いで1911年にジャワ島の反華僑で結束した商人らが中心となって組織されたイスラーム同盟(サレカット=イスラーム)は、より大衆的な組織であり、オランダに対して自治を要求する政治団体として活動した。
 1920年代から、独立の主体としての民族名をインドネシア人と自覚するようになり、多くの民族主義運動が組織され、「多様のなかの統一」(ビネカ=トゥンガル=イカ)が共通のスローガンとして用いられるようになった。その運動の中心となったのは、インドネシア共産党であったが、20年代半ばの武装蜂起に失敗した後、インドネシア国民党という民族政党が独立を掲げた運動の中心勢力となり、1945年のインドネシア共和国の独立を迎える。

多様のなかの統一

 インドネシアの民族運動の多様性について、次のようなまとめが参考になる。
  1. 島々に分かれた種族の相違
  2. 水田農耕、焼畑農耕、海洋交易という生産様式の相違
  3. イスラームに対する態度の相違
  4. 社会主義を主とする近代的イデオロギーに対する態度の相違
  5. オランダに対する協調路線と対決路線の相違
などがあり、その相違の中に王族、原住民官僚(プリヤイ)層、富農、中農、貧農、手工業者などの階層分化が貫かれていた。インドネシアの民族運動はこれらの多様性を克服しながら、現在もその途上にあるといえる。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.300>