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青年トルコ

19世紀末~20世紀初頭、オスマン帝国の近代化をめざして結集した「統一と進歩委員会」など軍人や知識人が結成した運動体を称して青年トルコという。1908年に青年トルコ革命を実行した。

 タンジマートで西洋思想に触れたオスマン帝国のエリート層が、スルタンのアブデュルハミト2世の専制政治を打倒し、立憲政治を復活させることをめざす運動を起こした。「青年トルコ」(または「青年トルコ人」)は一つの政党ではなく、1889年に結成された「統一と進歩委員会」を中心としたさまざまな反体制運動グループ全体をさしている。
 彼らは国内の活動を弾圧されたため、パリなどの海外に拠点を移してで活動していたが、日露戦争での日本の勝利やイラン立憲革命に刺激され、1908年にサロニカで、陸軍軍人(大佐)のエンヴェル=パシャが中心となって蜂起に踏み切った。この青年トルコ革命で立憲政治を復活させて政権を握ったが、エンヴェルなどは当初、ミドハト憲法などでうたわれていた民族、宗教を越えてオスマン帝国内のオスマン人としての自覚を国家統合の理念にしよういうオスマン主義を継承していたが、一方ではトルコ人の民族的自覚を重視しようというトルコ民族主義も台頭して内部分裂し、政権は安定しなかった。
注意 「青年トルコ」の呼称
(引用)「統一と進歩委員会」は、わが国では古くから「青年トルコ党」とよばれてきたが、この呼称は正確ではない。政党結社として「青年トルコ党」なるものが存在したわけではなく、反専制・立憲主義を目指すオスマン帝国の新しい世代の人びとを、西欧人が「青年トルコ人」とよんだのを、「青年トルコ党」とわが国で訳したにすぎない。<鈴木董『新書イスラームの世界史3 イスラーム復興はなるか』1993 講談社現代新書 p.54>

秘密結社「青年トルコ」

(引用)「青年トルコ党」という一個の団体が存在したわけではない。1889年に帝国軍医学校の学生4人がつくった秘密結社が、青年トルコ党の原基であることはまちがいない。たしかに「統一と進歩」「統一進歩委員会」「統一進歩団」などの訳語で知られるこの組織は、立憲制の復活をめざしており、パリの亡命者が出した雑誌の名前をとって、西欧では青年トルコ党の俗称で呼ばれることが多かった。しかし、アブデュルハミト2世の専制を倒そうとする運動はほかにいくつもあり、これら複雑な離合集散をくり返した運動や結社も、青年トルコ党として一括されることもある。いってみれば、青年トルコ党とは反体制運動の総称だと理解してもよい。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.406>

統一と進歩委員会

オスマン帝国の近代化をめざす青年トルコの中心となった結社。

 オスマン帝国内の近代化運動である青年トルコの運動のなかで中心となった、立憲政治を実現させることをめざした軍人による秘密結社。「統一と進歩」「統一進歩団」などとも言われる。はじめはイタリアのカルボナリなどの影響を受けた秘密結社として、1889年に帝国軍医学校の生徒4名によって結成されたが、アブデュルハミト2世の諜報機関(ハフィエ)によって早々に首謀者が逮捕されてしまった。続いてサロニカで軍人たちの秘密結社として「自由」が組織され、まもなく「統一進歩団」の名を継承した。
(引用)新しい統一進歩団には、二つの大きな特徴がある。その一つは徹底した秘密性であり、他の一つは現役軍人に大きく根を張ったことだった。彼らは自分以外に4人のメンバーしか認識できないという徹底した秘密結社として活動していたが、日露戦争や第一次ロシア革命、さらにイラン立憲革命の影響で、1908年7月に蜂起した。最初の指導者はニヤーズィ=ベイであったが、続いてエンヴェル=ベイ大佐(後にパシャの称号を与えられる)が起って、マナストゥルの兵営から出てマケドニア山中に拠った決死の部隊に参加して憲法の復活を認めさせた。その一年後には反革命が起こると、彼は再び首都に兵力を進駐させてアブデュルハミト2世を退位させた。<山内昌之『近代イスラームの挑戦』世界の歴史20 中央公論社 1996 p.407-410>
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書籍案内

鈴木董
『オスマン帝国 -イスラム世界の柔らかい専制-』
1992 講談社現代新書

山内昌之
『近代イスラームの挑戦』
1996 世界の歴史20
現在は中央文庫に収録