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タンジマート/恩恵改革

1839年のギュルハネ勅令に始まるオスマン帝国の近代化策。アブデュル=メジト1世の諸改革に続き、1876年のミドハト憲法の制定までにいたる。

 19世紀前半のオスマン帝国の危機の時代に、エジプト=トルコ戦争の敗北を受けて1839年の実施された、スルタンアブデュル=メジト1世による、ギュルハネ勅令に始まる改革のこと。正確にはタンジマート=イ=ハイリエ(恩恵的な改革。タンジマートが再編成のことで改革を意味する)という。実際に推進したのは宰相ムスタファ=レシト=パシャなどの改革派官僚であった。
 タンジマートはクリミア戦争(1853~56年)をはさみ、1876年のアブデュル=ハミト2世の即位とミドハト憲法の制定までの37年間、とされている。

タンジマートの内容

 内容はヨーロッパを手本とした、近代的な中央集権国家の建設を目指すもので、法律の整備、教育省の設置、銀行設立、官営工場の設置などを行った。
・1839年 「ギュルハネ勅令」 オスマン帝国臣民の生命・財産・名誉の保障、租税の法定化、兵役の期間などの明確化、裁判を受ける権利の保障など。特に、ムスリム、非ムスリムにかかわらず全オスマン帝国臣民に平等の原則が認められ、従来のムスリム優位の原則が改められた。
・1856年 「改革の勅令」 クリミア戦争がおきて、イギリス・フランスへの依存が強まり、講和の直前に「改革の力令」を出して非イスラーム教徒の政治的諸権利の尊重を唱い、西欧諸国への接近を示した。
この間、ミドハト=パシャに代表される有能な官僚が成長したことが具体的な成果とされる。

タンジマートの意義と目標

 タンジマート改革は、非西欧の諸文明世界における、ほとんど最初の体系的な西洋化による「近代化」の試みであった。それはのちの、中国の洋務運動、日本の明治維新、対のチャクリー改革などの先駆であった。
 またタンジマートは外圧に対してオスマン帝国を守るための上からの改革であった。そのため第一に帝国の支配の再集権化が目標とされ、アナトリアの地方有力者を再編成し、分権化の著しかったシリア、イラク、アラビア半島、アフリカのリビアに対する統制を回復した。しかし、ムハンマド=アリーが半独立的総督領としていたエジプト、フランスによって植民地化されていたアルジェリアとチュニジア、バルカン諸地域のギリシア、セルビア、ブルガリアなどを再集権化することはできなかった。

タンジマートの限界

 タンジマートは結局、西欧の模倣に終わり、また近代化に必要な財源は民衆の税負担に依存し、鉄道利権などを得た一部のヨーロッパ系企業だけが利益を得て、民族資本が育たず、結局外債に依存する度合いが強まり、国民的支持を受けることが出来なかった。結局、改革と戦争の財源を外債に依存し、国内産業の育成(明治国家でいえば殖産興業)に関心を向けなかったことがタンジマート改革の限界であったといえる。
 またタンジマートを推進した改革派官僚であるムスタファ=レシト=パシャらはエリートでもあり、自由主義や立憲政治までは考えていなかった。しかし、タンジマート改革の中から、次第に第三世代とも言えるミドハト=パシャなど、自由主義、立憲主義者が生まれ、彼らはスルタン専制政治とそれを支えるエリートに反発するようになる。
 上からの改革の恩恵に浴することの無かった民衆の不満は、イスラーム神秘主義教団などに吸い取られていった。それでもオスマン帝国そのものはヨーロッパ列強の対立という駆け引きの中で第1次世界大戦後の1922年まで生き延びることとなる。
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ノートの参照
第13章1節 ウ.オスマン帝国の改革