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ピウスツキ

ポーランドで独立運動を指導し、第一次世界大戦後にソ連との戦争を指導し独裁的権力を獲得した。

 ユーゼフ=ピウスツキはポーランドの独立運動の指導者として活動し、ロシアからの独立をめざしてロシアのツァーリ暗殺計画にかかわり、1887年から5年間のシベリア流刑を経験、1892年にはポーランド社会党に加わった。しかし社会主義の実現のために独立を目指すのではなく、独立を達成するために社会主義を利用し、労働者階級を味方にしよう、という考えであった。第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ・オーストリアに協力して軍団を組織し、ロシアと戦ったが、ドイツがロシアを勝ってもポーランドの独立を意図していないことが判ると反ドイツに転じ、逮捕されてしまった。

ポーランドの独立

 ロシア・ドイツの双方と戦う姿勢をみせたピウスツキは救国の英雄と目されるようになり、ロシア革命・ドイツの敗北という第一次世界大戦後の混乱の経て1918年11月にポーランドが独立したとき、国家主席兼総司令官に就任した。彼は18世紀末のポーランド分割以前のポーランドの領土の復活を目指し、まずソヴィエト=ロシアとのソヴィエト=ポーランド戦争に踏み切って、それを勝利に導いたことによってさらに人気を獲得して、独裁的な権力を獲得した。1923年、議会に権力を移譲して引退したが、議会が小党派が乱立して機能しない状況を見て、1926年クーデターによって再び権力を握り、国民投票で大統領となって以後、1935年の死去まで独裁権をふるった。

権威主義=サナツィア体制

 その独裁政治は同時期のムッソリーニ、ヒトラーに似ているが、議会制を完全に否定したわけではなく、また民族主義的な理念を押し出してもいないので、ファシズムとは区別されている。その体制はサナツィア体制といわれるが、サナツィアとは「浄化」という意味で、広範な国民的支持を背景にした権威主義体制という(同じような国家としてはホルティのハンガリー王国がある)。

Episode 日本にやってきたピウスツキ

 ポーランドの独裁者ピウスツキは若いとき、日本に来たことがある。それは1904年、日露戦争の時だった。彼の来日目的はロシアに対する独立運動を有利にするためであり、彼自身つぎのように言っている。「わたしは、もし日本が武器と弾薬についての技術的援助を我々に与えてくれれば、そのときには情報活動の組織化に同意してもよいと即座に決心した。なぜなら、ロシアが行う戦争という大事件が、同国に何らの痕跡も残さないはずはないし、(外国)勢力の援助があれば、ポーランドの運命をかなり改善できるような状況が生じてくるだろうと予想したからである」。なおこのとき、ピウスツキに反対する親ロシア派の政治家も日本に来て運動している。日露戦争がヨーロッパ情勢とも密接に関係していた事例である。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.121>