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段祺瑞

中国(中華民国)の軍閥安徽派の首領。袁世凱後の中国の実権を握り、1917年、中国を第一次世界大戦に参加させた。日本の資金援助(西原借款)を受け、政権を維持しようとしたが反発を受けて孤立し、翌年辞任した。

 だんきずい。1916年、袁世凱が死んだ後、黎元洪が大総統となったが、実権を握ったのは国務総理の段祺瑞であった。北洋軍閥は袁世凱の死後、段祺瑞の「安徽派」と馮国璋の「直隷派」に分裂し、抗争していた。段祺瑞はドイツに留学したこともある軍人であるが、安徽派を率いる軍閥の一人として、袁世凱死後の権力闘争に加わることになった。しかし、大総統黎元洪と国務総理の段祺瑞は、黎元洪が議会を復活させ良好な関係を作ろうとしたのに対し段祺瑞は議会を無視して強力な中央集権制をしこうとしたことから、対立が生じた。

溥儀の皇帝復位を阻止(復辟事件)

 1917年5月、黎元洪は国務総理段祺瑞を罷免すると、張勲(当時まだ弁髪だった)という人物を北京にいれ、段祺瑞の勢力を抑えようとしたが、張勲は逆に黎元洪に辞職を迫り、議会を解散して7月1日には紫禁城の溥儀(宣統帝)を皇帝に復位させるという挙に出た。これを復辟事件(皇帝を復位させること)という。背景には中国の第一次世界大戦参戦問題があり、段祺瑞は協商国側に参戦することでドイツ・オーストリアへの義和団事変賠償金の支払いを停止するなど、有利な状況を作ろうとしてたが、その動きを封じるためにドイツが張勲による復辟運動を支援したとも言われている。段祺瑞は軍隊を北京に向けて張勲を北京から追い出し(張勲はオランダ大使館に逃れた)、わずか12日で復辟は失敗に終わり、その後、馮国璋が代理大総統となり段祺瑞は国務総理に復活した。<川島真『近代国家への模索1894~1925』シリーズ中国近現代史② 2010 岩波新書 p.163-166>

第一次世界大戦への参戦

 張勲による溥儀の復辟を失敗に終わらせて実権を回復した段祺瑞は、1917年8月14日にドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦した。その意図は日本を含む連合国との結びつきを強め、立場を強化することにあり、また日本も段祺瑞政権を参戦させることで、イギリス・アメリカに対し、二十一カ条の要求の権益を認めさせようという狙いがあった。日本はそれ以前から段祺瑞政権を支援していたが、ますます関係は強くなった。

西原借款による援助

 このように日本と結んだ段祺瑞政権は、参戦費用に充てるという名目で、日本から巨額の資金援助を受けた。それは日本の寺内正毅首相の個人的な代理人西原亀三を通じての借款だったので西原借款といわれ、総額1億4500万円にのぼった。他の軍閥はイギリスやアメリカの資金援助があったので、外国勢力が軍閥にテコ入れして有利な権益を得ようとしたためであるが、内戦の費用ばかりでなく、段祺瑞周辺に私的に流用された疑いが強い。
 このような北京の軍閥段祺瑞政権が帝国主義列強と結んで中国の主権が蝕まれていくことに強い危機感を抱いた孫文は広東で、臨時約法を守る「護法」をスローガンにかかげて北京政府に対抗することを決意、1917年9月10日に自ら大元帥となって広東軍政府を樹立した。両者の戦いは「護法戦争」と言われ、広東軍政府は中華民国の中で、初めて北京政府に対抗する政権として戦ったが、内部にも地域対立などがあり、安定して維持することは出来なかった。
 しかし段祺瑞の日本寄りの姿勢は国民の反感を買い、国内の安定を望む民族資本家の支持もないまま孤立し、1918年には総理を辞任した。その後の北京政府は軍閥の抗争が続き、中国は実質的には軍閥の割拠する分裂国家となる。

日本の政局と西原借款問題

 巨額の西原借款は日本でもやがて大問題となった。この借款は1917年から徐々にはじまり、最後には総額1億4500万円に膨れ上がり、段祺瑞とその北京政府の混乱が続いたため、貸し付けた金は回収できずに焦げ付き、しかも日本それにみあう権益を得ることはできなかった。寺内正毅内閣は、1918年8月、シベリア出兵を開始、そのため国内で米価が騰貴の危惧が広がり、米騒動が起こった。それを収束できずに寺内内閣は総辞職、9月に代わって原敬内閣となった。原内閣は直ちに10月、「中国の南北争乱を助長する借款、資金供与を差し控える方針」を閣議決定した。結局、西原借款は回収の見込みのないまま打ち切られ、銀行の損失は国家が補填、つまり国民の税金から穴埋めするということになった。