印刷 | 通常画面に戻る |

アムステルダム国際反戦大会

1932年8月に、ロマン=ロラン、バルビュスらが呼びかけた、文学者や知識人の、国境や政治信条を越えた戦争反対を訴えた大会。人民戦線の形成に大きな影響をあたえた。

 1929年の世界恐慌の発生後、資本主義先進国がそれぞれ領土や勢力圏を拡張しようという姿勢を強め、ファシズムが台頭して戦争の危機が強まる中、フランスの文学者ロマン=ロラン(『ジャン・クリストフ』など)とバルビュス(詩人)が呼びかけて1932年8月27日、オランダのアムステルダムで国際反戦大会が開催された。この会議には平和擁護を求める29カ国、2200名の代表が参集した。参加者以外にもアインシュタイン、バートランド=ラッセル、アプトン=シンクレアなど世界的に知られた学者や作家がこの大会の支持を表明した。
 その創始者はアンリ=バルビュスであったと、後にロマン=ロランはいっている。しかし実際に組織し、運営に尽力したのは、ウィリー=ミュンツェンベルクというコミンテルン所属のドイツ共産党員であった。彼は天才的な組織力を発揮し、アムステルダム国際反戦大会は彼のショーともいわれた。彼は後にコミンテルンと不和になり、南仏で不慮の死を遂げる。

人民戦線への影響

 各国の共産党と社会党はこのような非政治的な集会の価値を認めず、党員の参加も禁止していたが、実際には大会参加者の38%が共産党であり、それ以外にもフランス社会党や労働総同盟傘下の組合員が多数参加した。通常の集会で社共双方の党員が同席することは考えられなかったが、このような非政治的な民間の集会で両者がともに参加したことは、34年頃から本格化する人民戦線運動の前提として重要であった。
 このアムステルダム国際反戦大会は、翌1933年6月のパリのサル=プレイエルにおける反戦大会へと発展し、「アムステルダム=プレイエル運動」とも言われるようになるが、第二次世界大戦後の冷戦時代、核戦争の危機が迫る中、盛んになっていく平和運動の源流がここに認めることができる。<海原峻『フランス人民戦線』1967 中公新書 p.63><